I
コミュニケーションコストの大きな媒体を使うほど、表現が心を動かす度合いは大きくなるんじゃないかなと思う。 コストが大きいと造る側は細かい部分を配慮するし、受け手はそれを補おうと想像力を働かせる余地が大きくなるからだ。
その仮定をおしすすめると何が見えてくるのか。 世界はどんどんコミュニケーションコストが小さなものになっていくから、人々の表現が心を動かす度合いも小さくなっていく。 ただ人々はよりたくさんのコミュニケーションを行うようになるから、心を動かす度合いの総和は、以前よりも大きくなっているだろう。 まあそれが良いことなのか悪いことなのかは分からないけど、誰もが涙するような傑作小説は生まれなくなり、怒りと憎悪が沸騰するような革命は起こらず、ごく小さな喜びやごく小さな怒りが、真空を気体が満たすように広がる。 そしてごく小さな共感が瞬時に帰ってきて、小さな承認欲求が満たされて、何も起こらないという世の中になるんじゃないかなあ。
コミュニケーションのエントロピーみたいな要素がどんどん大きくなっていって、全てはなだらかに、一つの意識に吸収されていき、ある一点を星のようにずっと周り続ける。 それは多様性とは最もかけはなれた終点で、一切が静寂に浸っている。
II
ネットの登場した頃に人々が言っていたには、いろんな人がそれぞれの思いの丈を発信できるようになり、多様な世の中になるはずだ、と。 でも実際は、情報が浸透する速度が上がっただけで、世の中を均一にするように作用した。インターネットは表面張力を破壊する界面活性剤のように働いた。 文化とか社会とかのそれぞれの色彩を持った液滴は、より大きい液滴に飲まれて色が混じり合い、最後に泥水みたいなのが残った。かろうじて今もまだ文化の多様性は残っている。それももう長くないだろう。
資本の力に支えられた言説や流行に、そういう防壁のない文化や社会はあまりに脆弱で、一瞬で破壊される。結局は影響力を持つ者が、より影響力を持つようになっただけのことだった。
色が混じる段階で、無数の衝突や摩擦が発生して、コミュニティは疲弊している。2chの転載の是非をめぐって繰り広げられた一連の騒動は、まさにこの例だろう。最終的には資本的な動機があるまとめブログが支配的地位を獲得し、そのような強さがない「ただのコミュニティ」でしかなかった2chは疲弊し、もう人もまばらな有様だ。「ネットの反応」という言葉はもはや唯のレトリックでしかなく、「そうあってほしい人々が求めているような反応」をまとめブログが表現して、金を稼いでいる。それが文化だとは僕は思わないし、その中で語られる正義や政治や愛国心や韓国や中国やアメリカなんてものは滑稽でしかない。
III
文化が資本で漉されて「いかにも、もっともらしい文化」になるという純化を受け、もはや本来いきづいている「そこの」文化から乖離する、とさきほど言った。
だが、いきづいている文化から乖離しつつも、「そうであることに何の根拠もない文化」がそこに存在していられるというのは、不思議なことだ。 たとえば、 元々どこかにあったマナーみたいなのが資本の洗礼によって「江戸しぐさ」に進化したとする。その江戸しぐさはもっともらしい事を主張するのだが、そこには何の根拠もない。だがそれは動いている。
文化は飛行機みたいなもので、一度離陸したら勝手に飛んでいくし、墜落したらもう飛ばそうと思っても飛ばない。まあ僕は無理矢理飛ばした文化は嫌いで、ネットとかテレビとかにくたびれてきたせいでそういうのはすぐに見抜けるようになったので、テレビとかを見ていてもすぐに醒めてやめてしまう。はいはい、そうだね、みたいな。つまんない大人だね。