Lambdaカクテル

京都在住Webエンジニアの日記です

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知的好奇心の幅について

知的好奇心を何に抱くかについては,人によって差がある.ある特定の物事に強い好奇心を覚える人もいれば,幅広い物事に覚える人もいる. どちらかというと自分は幅広く知的好奇心を覚えるタイプらしく,道を歩いていると様々な物が目に留まっていろいろなことを考えたりする. しかしながら,そのことが自分を苦しめているのではないかと思うようになった.この苦しみについて.

過剰な問題意識の抑制のために,情報の流量を制御しなければならない.そのためにはTwitterから離れざるをえない.

社会が多細胞化したということ

思うに,いつのまにか社会は一つではなくなった.おそらくずっと前から社会は一つではなかったのだろうが,それが表立ってそう感じられるようになったのはSNSの影響だと思っている. あけすけな物言いがインターネットでは重宝されるのだ.あけすけになっただけではなく,これまで抑圧されてきた(もしくはそう信じるに至った)人々が不満を噴出させるようになり,それまで世の中にあった支配的なスタンス,主流派というものが力を奪い取られるにつれて,世の中が多面的に変化を遂げた.その多面性のおかがで,俺はさまざまな物事に興味を持つようになった.

問題意識の結実,そして問題意識には大きな副作用があるということ

不満の噴出は専門家によって枠組みを与えられ,問題意識として結実する.そして知的好奇心はそのまま問題意識につながることがある. 社会について興味があったのでいくつか文献を読んでいるうちに,人権問題を視ることができるようになる,といったことがよくある. しかしながら,いちど視られるようになったものを視ないようにするのは難しい.ハンマーがあれば全てが釘に見えるという諺の通り,いやに問題が目につくようになる.その場にいるのが辛くなってしまう. こういったことが問題意識全般にあるように思う.問題意識があることで目敏く汚点を見付けてしまい,自分で社会に対する印象を悪化させてしまうのだ.こうなると雪だるま式に社会への敵対的感情を膨らませることになる. 同じように考えている仲間や情報を探し,問題意識を再確認する.問題意識はある種の使命感を人間に与え,アイデンティティと癒合してしまう場合がある.卑俗な呼び方を借りれば,「こじらせ」てしまうというわけだ.

一人の人間に与えられた問題意識の処理能力には限界があるということ

一般に何にでも知的好奇心を,問題意識を持つことは良いことだとみなされている.それが文明社会における賢さの尺度としてふるまっているきらいがあるからだ. だが一人の人間が借りられる知的好奇心や問題意識の量はSNSやインターネットメディアの発達によってどんどん増加している一方で,その返済能力は相変わらず一人の人間のままだ. 仮に全ての情報を人間一人が手に入れられる時代が到来したとして,どれだけのことができるだろう?せいぜい情報の再拡散か単純な認否かができるにすぎないだろう.それが現代だと思っている. 人間は目に付くもの全てに何か言いたがるし,俺だってそうだ.だがそれは人間の驕りなのだと認めざるをえなくなってきた.全て処理することはできないので,ある程度スコープを絞って注力したほうが,得られる結果としても精神的衛生の面からも良いのではないだろうか.そのためには,問題意識をある程度突き離して,優先度のコントロール下に置く必要がある.そのためには,知的好奇心が何でも食べてしまわないように,入ってくる情報をある程度制御するほかないと思う.すばらしい生き方をしている人は,多かれ少なかれこのような情報制御を行っていると思う.

Twitterというフレームワークに思考が固定されることへの忌避感情

自分にとって大きな知的好奇心の源はTwitterだ.Twitterは知的好奇心を満たしてくれるし,卓越した意見をもらうこともできる.だがTwitterの情報の質は悪すぎる.1つのすばらしい知識を得るために,誰かの憤懣や被害者感情,義憤,無関係などうでもいい情報,子猫の動画や'世界を変える新発明'といった動画を見せられることになる.この情報を選別するために脳のリソースが消費されるし,たいてい人間は嬉しいことよりも嫌なことを広めようとするもので,社会への感情が悪化するようなツイートや,ともすればヘイトスピーチを見せられて精神衛生を損なうおそれが大きい.Twitterの仕組みを受け入れると,その仕組みの必然としてジャーナリストごっこに身をやつすことになる.俺がしたいことはそういうことではない.俺はジャーナリストではないからだ.

世界に対する責任を押し付けないでくれ

Twitterに限らずSNSは,あたかも自分が明日の世界に対して重い責任を負っているような感情を俺に植え付けようとする. またアメリカ流の「君は世界を変えられる」式の言説が最近の巷でありがたがられているのも気になる.経営者目線を強いられる企業戦士のごとく,ノブレスオブリージュがいつのまにか庶民に降下している. 別に世界なんか変えなくていいし,世界を過ごしやすくしたければ足元から始めればいい.勝手に責任を担おうなどというのは自惚れだ.のぼせるなと言いたい. インターネットごしに社会を眺めるようになると,実際の世の中が物言わぬ数十億人の人間によって成り立っているということを忘れて,自分の小ささが分からなくなってくる.あたかも自分が世界に残された救世主であるかのような錯覚を抱かせるには十分な「見通しの良さ」をインターネットは提供してしまう.だが実際の世界はあまりにもでかいし,そう簡単に世界が変わってたまるかよと俺は思ってしまう.

しかしどうしてこういった「世界への責任ある態度」がありがたがられるのだろうか.本当に世界は小さくなっているのだろうか.

責任を取っているような態度を見せると,人間は実際にそれができるような立場にいるような幻覚を見ることができる. 実際に偉くなったような気がする. 手軽にアイデンティティを得るための幻覚剤として「世界への責任ある態度」が乱用されているように俺の目には写ってしまう. 多様性が爆発した社会にあって,俺を含めたさまざまな人は,自分への自信を失い,所属するべき場所を手に入れられず,人生を支えられるような確かなものを得られずにいる. その不安が,責任ある態度という一種のマナーに集合して,なんとか自分を落ち着かせているというのが実際のところなのではないか.不安にかられた人は,正義に集まろうとする.

だが俺は正義に集まりたくない,インターネットから押し付けられる正義に疲れた,という気持ちなのだ.

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