都会が苦手である。特に、人が多いところが。
人が多いのみならず、隣の部屋に全然知らない人が住んでいるのがどうも受け入れがたい感じがある。 自分は田舎で育った。のでパーソナルスペースというか、心理的に欲しい距離がかなり大きい方だと思う。
怖いから、隣に人が住んでいるのが苦手だ。街に素性のよくわからない人がたくさんいて、その中には悪党も混ざっていて、いつか自分を傷つけるか騙す日が来るようで恐ろしい気持ちになってしまう。 人が多いということは悪党もいるのだけど、しかし比率はたいして変わらないのかもしれない。が不気味な感じがする。
窓の外が怖い。あの塔の一つ一つの小箱に虫のように人が棲んでいて、それがいくつも地面から生えていて、人々の暮らしがあって、その詳細は秘匿されていて、なにを考えているのか分からないのだけれど、わらわらと知らないことをやっていると思うと、気が遠のきそうになる。
知らない事が知らない場所で知らない人たちによって行われていて、その意図も分からない、内容も理解できない、という、それは即ち他者というものなのだが、他者のいない均質な田舎で育った自分には、他者というものがなんなのか、自分を討ち滅ぼそうとするのか、関心が無いのか、共生を志向しているのか、ともかくそれすら全くばらけているので、とにかく予測不能・理解不能な他者なのだ。自分は他者を理解しようとしてしまう。 他者への理解をやめた時、自分は都会に順応したと言えるかもしれない。
自分の悩みは関心の焦点が問題である事が多い。どこまで他人を他人として突き放すのか。他人を捨象してシステムの問題としてあれこれ論じるのがどこまで許されるのか。僕は人の顔を覚えるのは苦手だが、人と目が合った瞬間にその人とは他人になれなくなってしまう。僕は政治的にも、困っている人には積極的に介入しましょう、という立場なので、いわゆる世話焼きな感じになってしまう。周りにいる人間のことを考えるのではなく、周りにいる人間になりきってしまう。そこで精神力が使われてしまって、自分だけのことに集中できない。自分一人が幸福を追い求めるのが、なんだか罪深い大それた行為のように思えてしまうのだ。
この他人の不幸が怖いという思考パターンは、現に自分が悩んでしまっているので、健全ではないと思っている。 当面誰も困らずに成り立つ考え方が良い考え方なのだろうけど、そもそも他人の不幸について考えてどうするのだろう。助けるわけでもないのに。その点、「自己責任」と言い切るのは強くて、明快で、残酷で、潔さと清涼感がある。僕は他人を救いたがるか、一緒であることを求める子供だ。他人を気にするふりをして、他人を認められないのだ。
なんかあったら助けるけど、子供じゃないんだから自分からアクションは起こしてね、というくらいが、良い他人観なのだろうか。他人にも自我がある。