Lambdaカクテル

京都在住Webエンジニアの日記です

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どのくらい人間の知性(と未来)を信頼するか(信じるしかないのだけれど)

ここ最近、難しい話題や事件がたてつづけに起こって、滅入る。COVID-19の流行は終わる兆しを見せず、周期的に感染者数が増減している。みんなどこか疲れていて、マスクを外すことにあまり躊躇しなくなりつつある。世界的な話題としては、ロシアがウクライナへ武力で侵攻し、数ヶ月経過した今でも戦況は膠着しがちで、終わりの見えない破壊と殺戮が行われている。そんな中、そこそこ近所の県で安倍元総理がよくわからん男に射殺(射殺と呼ぶにはいささか粗末な武器だったが)されてしまい、国中が騒然とし、戦慄し、あまりに信じがたいことが起こったので、どうしたらよいものかと互いの目を見合わせている。民主主義への暴挙としてテレビやネット的には消化されつつあるのだけれど、政治変革を目論んだテロリストが起こしたいかにもなテロではなく、たまたま不運なことになった人間が狂ってしまい、たまたまそこに大物政治家が現れ、運悪く銃の当たり所が悪かった、という、ただやるせないだけの出来事のようにも思えて、自分はそんな気持ちをなんとかすべく、ぼんやりと近所を買い物に出歩いたけれど、世の中はそこそこ順調に回っていて、逆に溶け残りが口にずっと残っているような感じだ。しばらくはジャリジャリした日常を過ごさなければならないのだ。

もともと自分はそれなりに人間の知性みたいなものを信用していて、だからこそコンピュータというものが大好きだし、インターネットという存在にもすぐ飛び付いた。未来から来た知的な道具が人間を次のステージに連れて行ってくれる、そんな気がしたのだ。科学によって人間は次々と便利な道具を開発していくし、その都度人間は不自由を克服して前へと進んでいくのだ、という感触があった。図鑑や科学館の類が好きだった。

最近は、社会が抱えるのは科学や技術の問題ではなく、人間の問題なのだ、という雰囲気にシフトしたように思う。環境の汚染やエネルギー不足といった従来の問題は未だに続いている一方で、差別やフェイクニュースだとか、同性婚、中絶、という感じの、もうそれは「どう思うか」でしかないような、人間の心に潜む本質的な問題というふうに図式が変化してしまっていて、科学の限界を感じると同時に、それに対して人間は大したこともできず、むしろ問題を再生産している。科学の力によって創られたSNSという技術の結晶において、である。がんばって技術ですごいものを作っても、人間はそこで差別的な事をつぶやくし、カルト団体が幅を効かせ、ワクチンで洗脳されるとかよくわからないことを発信し続けている。我々がやっているのは一体なんなのか?と思ってしまう。

割とどうでもいい事がまとめサイトによって拡大再生産を続けていて、バブルにおいて現金が果たした機能をそっくり情報という言葉が置き換えたような現状に虚無感を感じてしまう。又聞きや引用によって情報がふくれ上がる一方で、その本質にある議論は進まず、ただ瑣末な部分で、実にどうでもいい理由で、他人を恨む人間が生産されている。インターネットを使うことで、会ったこともない赤の他人を勝手に恨むようになり、最終的に殺してしまうという事件がたまに起こるが、やるせない。技術の結晶が憎しみを再生産する装置になっているのが悲しい。せっかく開発したにもかかわらず、誠実な議論といったものが行われるのは、いつもインターネットの外側においてだ。

だから、自分は人間の知性への信頼度がどんどん下がっている。たまたま自分がコミュニティサービスのソフトウェア開発者であるから、そのように感じているだけかもしれない。他の職種であれば、人類の知性の威光の日溜まりに触れられるかもしれない。本当に人間こんなもんなのかと、がっかりする日のほうが多い。

そうやっているうちに、自分に宿っている知性への信頼もどんどん下がっていることにある日気付くのだ。仕事をしているときに突然、自分には大したこともできないのではないか、努力しても知的なものは一切作れないのではないか、という考えに苛まれるようになった。自分は知的な人類なのか、それともそれ以外の人類なのか?というふうに。知性があるからこそ、人間は未来をある程度自分の意志通りに変えることができるはずが、知性への信頼が下がってしまった今、作ったところでどうなるのか?そもそも作れるのか?という感情になってしまう。自分が感じている面白いという感情、作ってみようという感情、学んでみようという感情が嘘に感じられてきて、怖くなってしまう。おまえはインターネットで見る不誠実で知性を重んじない人間と同類なのだ、という気がしてくる。自分もちょっとした出来事をきっかけに、盲目的に暴れ回るインターネットの群集になり、陰謀論を信奉するようになるかもしれず、そうならない根拠は無いのだ。

しかしその一方で、そういう気持ちに抗ってみよう、という気分がようやく生まれつつある。これまで人間は逆境に向き合い続け、ある程度は克服してきたし、その大部分は暴力でも嘘でもなく、誠実な知的努力によってなされたものであることを知っている。だから知性というものを信じ続けていくしかないし、これは祈りでもあるのだけれど、知性が信じるに値するものであってほしいのだ。他人はそこそこ知的に誠実に振る舞うはずだ、という全ての前提を、しぶとく信じていくしかない。人間をしぶとく信じ続けることが、暴力に斃れた人間に対する、せめてもの鎮魂歌になるのだ。

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