Lambdaカクテル

京都在住Webエンジニアの日記です

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自分が何者であるか分からなくなったときに読む(動きによって定義する)

「自分が何者であるか」、言い換えると自分をどう定義するかという問いには、古今東西の人間が直面してきた。特に現代人は他者を認識する機会が多いから、いつも比較してしまうだろうと思う。自分が何者であるかは死活問題になる。特に、ひねくれている自分にとってはしょっちゅう直面する問題でもある。だから自分はこの分野についてちょっとだけ他人よりも洗練されているかもしれない。そこで、自分の最近の考え方をすこしまとめておこうと思う。

まず、素朴に自己を定義しようとするときに最初に持ち出されるのは 内在的な定義付け だ。自分はこのグループのメンバーであるとか、自分はScalaでプログラミングができるとか、お絵描きが上手いとか、自分は背が高いとか、そういった外部の存在によらない、他者が隠蔽された属性によって自分を定義していこうとする。だがこの方法は破綻しやすいと考える。他者との比較が繰り返されて、こういった属性はあっという間に陳腐化し、うずもれてしまうからだ。加えて、内在的な属性は時系列的に変化に乏しい。かくしてアイデンティティの危機が訪れる。

大事なのは、外在的な定義付け だ。自分は誰と何をしていくとか、Scalaについて発信していくとか、バイクを愛しているとか、外部の存在との間において自分を定義してみる。この方法は強度があって、あまり悩まずに済むことが多いと思う。自分という存在と比較したとき、外部の存在ははるかに多様で変化に富んでいて動きが止まってしまうことがない。外部とのインタラクションがあることによって相互承認的な効果も生まれる。簡潔に言うと、「であるからするに移行」するのだ。すると自然と他者がそこに入ってくるようになる。

ちなみに、もともとは自分は外在的な定義付けが嫌いだ。自分を測るものさしに、他人がいるのが嫌なのだ。自分を定義するために他人の存在が不可欠であるという事実が嫌だ。他人の目を気にしながら生きるなんてまっぴら御免、我が道を貫きたいわけだ。

だがその考えは間違っている。人間は最初から社会的動物なので、 自我の中にはある程度他者が食い込んでいる のである。自分は最初から他者の一部であるし、他者もまた自分の中にあるのだ*1。自分に何らかの意味や価値付けを行うには、他者が欠かせないということを、認めなければならない。(この考えを押し進めると、自分の手を離れても普遍的に成り立つ究極的な価値という概念には無理がありそうだということがわかってくる。)

ところで目がどのように物を認識しているかご存知だろうか。目は、より厳密にはそれを処理する脳全体のメカニズムにおいては、人は動いている物体しか基本的に認識できないと聞いたことがある*2。目は無意識のうちに細かく振戦することで視線を移動させ、意図的に画面全体を移動させ続けることによって、静止した物体も認識できるようにしている。脳にとっては、動いていることが認識のために重要なのだ。

心も実はそうではないかと思うのだ。「自分が何者であるのか」といったことを内在的に、省察によってのみ得ようとすると、そこには動きというものがないから、脳はそれをうまく言い表すことができないし、意味付けを行うことができない。外部の存在とうまく組み合わせることによって、より明瞭に自分というものを認識できるようになって、はじめて自分が生き生きした主体たりうるのではないか。内在的な定義付けに加えて外在的な定義付けを行いつつ、さらに時系列的なダイナミズムを与えることによって、充実が得られるように思う。

*1:そういう意味では、「完全に自立した個人」という考えは結構危ういようにも思えてくる

*2:ウソだったら、ごめん!

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