LGBTには生産性がないみたいな話をした議員が問題視されたり、末期患者は生きる価値がないみたいなことをブログに書いて爪弾きにされた著名人がいたりする。こういう炎上はよく起こる。なぜかというと、こういう発想を肯定するしないに関わらず、われわれは普段から「個人の価値性」みたいなものを信じているので、琴線に触れやすいのだろう。
ある個人に何かができるとき、その人に価値があって、できない人は、比較的価値がない、みたいな発想である。
この個人の価値性の話はいたるところで現れる。
自分に自信がない、みたいなとき、自らの価値性が問題になっていることが多い。他人はこんな価値性を持っているにもかかわらず、自分にはない……といったことを考えている。そもそもこういう考え方が現れるのは、個人に価値があるという考え方を信じているからだ。
こうした個人の価値性の感覚は生得的なものではなさそうだ。なぜなら、小学生が「俺の価値って……」と悩んでいるイメージはあまりないから。中学高校あたりで、アイデンティティ確立の過程で価値性みたいな概念を内面化していくように思える。最初はどっちがより顔が良いとか、頭がいいとか、そういう競争的なプロセスを潜り抜けて、他人と自己とを区別するために価値性を持ち出すようになる。
こうした価値観では、個人に価値が所属することになっている。windymeltという人間がScala書けるという価値を所有しているということになる。
しかし、個人に価値が所属するという物の見方もまあまあ一面的だと思う。個人主義的すぎると思う。
例えば、会社は人が集まって何かをやるわけで、どちらかといえばチームで価値を創出しているという側面が強い。単に個人の価値の総和ではないはず。それに、windymeltがScalaを書けるようになったのは、Scalaを教えてくれた書籍やサイトのおかげだから、実のところ価値はそれらの中にあって、自分自身の中に本当に価値があるのかは不明、ということもできる。
したがって、個人に価値が所属するという見方は割と無理があると思うし、個人に価値があるからエラいとかエラくないとか、そういう考え方もなんかおかしいのではないかと思う。
そもそもわれわれは個人という単位を信奉しすぎというか、(もちろん個人の自由が大事だとか、個人で稼げる人も居ますとかそういう話は当然だとして)実は我々は個人レベルでは大したことができないのに、社会というシステムはそれを曖昧にしたまま、個人の価値の研鑽を無限に求めてくる、みたいな欺瞞を感じずにはいられないのだよなぁ。
何が言いたいかというと、自分の価値性みたいな視点で悩んでいる人がいるとしたら、社会はチーム戦なのだから、個々人の価値みたいな尺度は唯一の尺度じゃないんだよね、ということ。個々人を測る客観的で独立した規格みたいなものは無いんだよね、ということ。
でもまあ、人は客観的な指標で値踏みできるのだと思い込ませてくるような仕組みが世の中には沢山あって、年齢とか資格とか結婚してるかとか年収とか書ける言語とか、英語や中国語ができるとか、そのたびに不安になるのだけれど、それは人間の価値そのものではなくて、道具的要素でしかない、と覚えておくと良さそう。