Lambdaカクテル

京都在住Webエンジニアの日記です

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カメラ沼、そして思考沼 / 客観視が抑鬱をもたらす

先日RubyKaigi 2022に参加して、三重県津市で楽しく過ごすことができた。肉を食べたり、DJを見たりした。その参加レポートはもうしばらくしたら完成するから置いておくとして、そんな道中を記録するのに、フジフィルムのX-E4が活躍した。

めっちゃピンボケしてる

俗に、あるジャンルにどっぷりハマることとか、そのハマる対象たるジャンルのことを沼と言う。今のところ自分はカメラ沼には落ちていないけれど、生きているとだいたいなんかの沼にハマることになる。さしずめ、カメラ沼、腕時計沼は回避しているが、今後どうなるかは分からない。

思考にハマって進めなくなる

ところでハマり方は全く異なるが、思考の沼のようなものがあると気付いたのは風呂に漬かりながらキッチンの食洗機の大いびきを聞いていたときだった。自分は、楽しく何かをやっているときにふと我に帰って、しらけてしまうことがある。逆に、これから何かしようというときに精神が身動きが取れないような感じになって硬直してしまうことがある。思考が板挟みになったかのようで、体験している自分からすると苦しいのだけれど、外からすると単に何もしていないだけになってしまう。自分はふとした拍子で、踊らんとする生命の両足を無理矢理掴んで擱座させてしまうような、この 思考沼 にハマって、何もできなくなってしまうことがある。自分は全くの専門外だが、抑鬱状態という概念が近いのではないか。そして、それを回避するために、何か食べたりして五感を刺激して振り払おうとするのだが、抜け出せるときもあるし、そうならないときもある。

強烈な虚無感と喪失感のようなものが襲ってくる。自分が取るに足らない存在であることが心に直接書き込まれるような感覚になる。

爾来、それが何なのかよくわからずにいたし、回避する方法も不明で、ようやく思考沼という名前を与えてそれを認識できるようになった、というのが実際のところだ。なんらかがトリガーとなって思考沼に足を取られ、思考が全て内向きになり、精神が動けなくなってしまうのだ。どうしてそれが発生するのか?その原因とは一体何なのか?という事を考えていると、自分を客観視しようとする行為がなんとなく思考沼のトリガーになっているように感じた。

客観視トリガー

生きていると誰でも、ふと自分を客観視して虚無感を感じたり、孤独に思ったり、恐ろしくなったりする。しかし魂は「ふつうの日常」へと大抵の場合には帰っていく。それが、どういうわけか突然発生する、というのが自分の場合で、いきなり虚無感を感じてしまうし、何かをやっているときに発生すると投げ出してしまいたくなる。

客観視することが自分の中のなんらかのトリガーになって、思考沼へと自分を落としているのだろう。風呂の湯はぬるくなり始めていた。

もちろん、誰でも己を客観視することでちょっとした虚無感を味わうことができる。普通は深掘りしないので精神的に疲弊することはないのだが。どうやらそれが内面化しており、自分を省みることが一種の儀式化している場合に、自動的に思考沼へと引き摺り込まれてしまうのだ。つまり、徹底的な自省が身に付いてしまったが故に、現実と自省との板挟みになって思考が停止してしまう、というわけで、自分の場合はそれがクセみたいになっているらしいことがわかってきた。

客観視から逃れる

トリガーとなる条件が分かったので、それを回避することで、健康で文化的な最低限度のメンタルを手にできるのではないか、と考えた。 トリガーが発火さえしなければ、いきなりモチベーションが破壊されてぐったりすることが減るからだ。

自分は反射的に「じゃあ自分は?」とか「他の人にもできるのでは?」とか考えてしまうようなので、なるだけ自分に思考の顔を向けずに、なるだけ自我を意識しないように、それ自体を真っ直ぐ見ると良さそうということがわかってきた。自分は、思考が自分本位になっていて、対象のことを真っ直ぐ見ていないのではないか、ということに気付けた。

例えば、小学一年生は自己を客観視して他人と比べたりしないはずで、 楽しいことは楽しいし、良くない事は良くない、という状態を保てている。社会に出るにつれて、他人と比較され、自分を強制的に客観視する訓練をさせられていく・・・・・・。

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