Lambdaカクテル

京都在住Webエンジニアの日記です

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知性とは言語の統合である(かもしれない)

こういうツイートを見て、最近の問題意識に近いなと思った。

デバフ合戦 という表現がしっくり来て面白かった。たしかに、引用RTでワッと何かを言ってみたり、はてブでひねくれた事を書いて攻撃するとか、スクショを撮って晒すという行為は日常的に行なわれているが、要するにこれらはデバフ合戦なのであって、特に何か建設しているわけではない。が、こうした行為は勝ち負け的な要素を含んでいるから、どうしても気になったり、現実に立場を悪くしたりするおそれがあるから、完全に無視するわけにもいかないという非対称な性質がある。

我々はなんとなくTwitterでちょっとした短文を生成することに慣れきってしまっているが、こうした短文で何か書くという行為は大した努力を必要としない。一方、それなりの長文を書くには、自分の言語能力をフル稼動して、散らばった言語を再構成し、統合し、表現する努力が必要になる。

↑のツイートにも書いていることだが、知識とか知性と自分たちが思っているものは、言語的な要素を統合する能力のことなのではないかと思った。体系立てて何かの対象を表現したり、分析したりという行為は、現実世界を言語要素に分解してこれらを操作して統合するという所作によって得られるものだ。引用RT合戦めいた行為が非-知性的な色彩を帯びるのは、言語の統合の努力の跡が見えないからであって、例えば何も考えずに行なわれるクソリプはその極北に位置している。他方でGPT-3.5といったLLMは、巨大な言語の集合をそこそこ賢く統合していて、様々な質問に答えたり、複雑な知性的なタスクをこなすことができている。

思えば、大学で嫌になるほどさせられたレポート作成とか論文執筆、論述の類は、たしかに言語の統合という範疇に含まれる課題だったな、と気付く。通常の人間は30ページ分の統合された日本語を喋ったりはしない。そういう課題遂行によって学生は知的に鍛えられ、ありがたがられるのではないか。

SNSをずっとやっていると思考がバラバラになっていくような不愉快な感覚に陥ることがあるのだが、あれは言語統合能力が疲弊しているのかもしれないと思った。断片的な表現が押し寄せて、脳を疲弊させている。

統合失調症という疾患があるが、もしかすると、この言語統合能力が病的に阻害されているのかもしれないな、と思った。

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