ツイッターを見ていると,知らん馬の骨の不行跡の糾弾だの,何にでも与党か野党批判をもちだしてくる馬の骨だのが一日に一度は回ってきて辛い.うんざりだ.人は正義に飢えているのか. だいたい,あんた専門家じゃないだろ………という体験があった.
アマチュアとプロとの区別がなくなりつつある時代なのかなと思う.
卑近な例を挙げれば,ニコニコ動画は元々アマチュアのプラットホームとしての側面が強かったけれど, プロが動画を投稿したり,逆にアマチュアだった人がプロになって動画を投稿するようなこともあたりまえになった. そして投稿される動画にも一定の水準が期待されるようになって,出来が悪いと批判を浴びたり,またそれに応えるように「嫌なら見るな」といった言葉の応酬がはじまるのをみかけたりするようになった. Twitterでも同様で,何の気もなしにツイートした文言でも,人づたいに伝わるうちに内容の完璧さに対する期待値がどんどんずれていって,それが摩擦を生じさせたりする. また,プロの立場の人が(意図的なのかどうかは知らないけれど)プロとはいえないようなことを投稿して,その取り巻きがアマチュアの水準からこれをかばう,といったこともある.
まあ最後の例はそんなに自信がないけれど,アマチュアとプロとを区別しない傾向はあるとおもう. とはいえ僕は昔が良かったと復古主義を叫ぶわけでもない.
個人的には,アマチュアがプロ並みの水準を要求されるようになることが,なんとも憐れむべきことのように思う.ちょっと勉強した技術を見てほしくてエントリを投稿すると,不正確だという批判を受けることになる.投稿者は自慢したいし,褒めてもらいたい.でも閲覧者は,それが多数の目に触れるからといった理由で,その内容の不正確を許さない.あらゆるコンテンツに誰もがコメントをつけられるからには,もはや主観的な文脈は脆弱で,客観性の海にどんどん沈んでいくしかない.
この論理は,誰が言ったかではなく何を言っているかが大事,という昔ながらのネットの論理に裏打ちされている.その一方で,もとよりリアルの延長線にすぎないネットは,より現実との一体化を推し進められる運命にある.ネットはよりソーシャルになり客観性が重んじられるようになる一方で,より私的な生活の場になるのだ.これは矛盾ではないかと僕は思う.
しかも年々「公的なもの」に対する人間の要求水準は上がりつづけている(出来の良さという意味でも道徳性という意味でも*1 )し,インターネットで何でも公開できるからには何でも「公的なもの」になりうるし,実際そう見られてしまう.ネットにはすごい人があふれている一方で,大多数の人間はかなり苦労しなければその水準に達することができない.だから萎縮してしまうという気持ちはよくわかるし,こんなの書いて何になるんだ,という一種の諦めが生まれたりもする.本当にやりたいことは,たまに人が通る道沿いに鉢植えを置いて水をやることで,華道をやりたいわけじゃない.
インターネットでものを書くということはどういうことなのだろうと考えているうちに,このような考えがうまれてきた.プライベートなのか,パブリックなのか,よくわからない世界に生きている.
*1:いわゆるポリコレ棒はこの不幸な例ではないだろうか.