生活を10くらいの部分に分割する。それらを「プロフェッショナル」と「アマチュア」で分けるなら、どういう比率になるのか、ということを考えている。これは人によって差があるのではないかと思っている。そして、生きづらさみたいなものともある程度は関連するのではないかと思っている。なぜなら、生きづらさの一種は自己肯定感に関するものであり、それは自ら課すハードルの高さの問題でもあるからだ。
いま僕が言いたいところのプロフェッショナルとアマチュアの違いのおおまかなイメージは、以下のようなものだと思っている。
- プロフェッショナル
- 完璧以外は無価値
- 客観的なバリュー
- 競争原理、序列
- 批判的
- アマチュア
- 努力評価
- 主観的、個人的な満足
- 非批判的
かつて、自分はこの比率を無意識のうちに、かなりプロフェッショナル寄りに傾けて設定していたようだ。それはなぜなのかといえば、体験や身に付いた価値判断に基づく事が多いようだった。色々な種類や経験時期がある。
- 文科系出身者でありながらソフトウェア開発者としてキャリアを築いていく切迫感
- 高校に入ってから下がり続けた学力を下げ止められなかった悔しさ
- 出身地から離れて旧来の知人がいない状況
- 未来に悲観的
- 自己啓発書をけっこう読んだ
- もともと何でも先延ばしする性格だったので、自罰的になった
なんだかあまり後味の良くないリストだが、これらは一例、氷山の一角で、こういった経験がプロフェッショナル度とアマチュア度との精神的な釣り合いを無意識に規定していくのだと思っている。
ところで僕はかなり長いこと生活をプロフェッショナル寄りにしていた結果、様々な弊害の禍を受けることになった。
- 完璧以外を認められない
- さらに失敗を恐れるので能動的な事が何一つ出来ない、忌避感を感じる
- 言語の勉強
- 知ったことをエントリにする
- ジャンル問わず読書
- 自分の人生に悲観的になる
- そして病院へ……
そしてついぞ最近、自分の中にプロフェッショナルとアマチュアの天秤があることを悟り、このバランスがかなり偏っている事を認知した。何がきっかけだったのかは覚えていないが、ああ、そういえばそうか、といった納得感とともに、このバランス感覚を意識するようになった。これを今読んでいるあなたのバランスはどうだろうか。
さて、アマチュア寄りに思考を寄せることで以下の事柄が期待できる。
- 気ままになる
- 非生産的事柄(つまり遊び!)に熱中できる
- 時間に追われる感覚を捨てられる
もちろん行き過ぎるとちゃらんぽらんになってしまうので良くないが、ポイントは心に遊び(余裕という意味でも、遊戯という意味でも)を与えることである。
さて、自分の軛から自分を解き放つために(つまり思考をアマチュア寄りに寄せるために)、知的な、創造的な行為に臨んでは次のように意識することを心がけた。
- 人間は、その人が専門にしている仕事以外のことについては全てアマチュアである。
- もとより人生にプロフェッショナルは無い。
- 少年の心を思い出せ。
- 他人を羨むな。他人と比べるな。
- アマチュアになれ。
今となっては、かなり楽に本を読む事ができるようになっているし、こうやってエントリを書けるようになっている。だからそれなりにこの試みは上手く行っているらしい。
精神的自縛自縄を回避するためのこの一連の思考実験を個人的には、アマチュアリズムと勝手に読んでいる。
ところで我々の住む世の中は人間のあらゆる部分に正解と非正解がいつの間にか設定され、プロフェッショナルを要求する傾向にあると思う。仕事、生活、日本人ならかくあるべしといった談、あれやこれは遅れているという圧、誰かが勝手に決めたマナー、就活しぐさビジネス、本当に多い、多すぎる。でも人はそれを知りたがるし、それに自分を合わせてしまおうとするのだ。僕にはそれは、とても残念でならない。都会的なメンタリティというか、ビジネス的な動機による支配と、不安に駆られた隷従とが、インターネットを含めた生活を支配しているように思えてならない。
この考えを助けたものとして、以下を挙げる。
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また過去の似た話としてこちらもある。 https://blog.3qe.us/entry/2018/07/23/223017