モノに注目する
自分にベクトルが向いているうちは何やってもダメだ、というのをどこかの偉い人がしていた。誰だか忘れたのでどうでも良いけど、確かに自分のことだけ考えているときは大してうまくいったことがない。
- 自分が評価されるか
- 自分はダメだ
- 自分はもっとできるのではないか
ひるがえって、じゃあ他人のことばかり考えているときは万事安心かというと、違う。
- あの人が喜ぶか
- あの人はどう思うか
- あの人に勝ちたい
若干ましになったような気がするけれど、自分にベクトルが向いているやつの変奏という感じで、このマインドで突っ切ると、まわりにずっと振り回されそう。
自分と他者、という二項対立をいったんやめてみて、モノというカテゴリを考えると、わりとうまくいくな、と思った。
- このモノはどういうモノなのか
- このモノはどうするべきか
- このモノとどう向き合うのか
いったん人から離れてモノに注目すると人に振り回されずにすむ。
自分は共感性をわりと高く持っているので、なにかの事物を見聞きしたとき、そのモノから離れて、そこにかかわった人々のことに思いを馳せてしまい、余計な事を考えがちだ。 人間が出現すると、脳内のバイアス回路が起動する。こういう事に違いないとか、余計な偏見や感情が出る。
最近のニュースの傾向としても、当事者や被害者といった人にフォーカスして絆とか嫌悪とかの感情を揺さぶる、みたいなものが多い。現象や構造にフォーカスできず、問題の本質から遠い場所にある、この人が可哀想ですか、この人が許せますか、みたいな方向に逸れていく。 でもこういう形式はバズるので、愛用されるようだ。醤油をペロペロできるという回転寿司の構造上のイシューには触れず、醤油をペロペロした少年だけが延々と責められ、本人は学校を中退する。その頃にはみんな忘れている。
結果くたびれる。くたびれるのは仕事に差し支えるから嫌だ。
人にフォーカスするのはモノづくりの原点ではあるが、今は人側にフォーカスが寄りすぎる世の中だと思っているから、モノにフォーカスする。
メモして、編集する
こういう動画が流れてきた。出所はまったく不明。著作権完全無視だが、まあそれは置いておいて、良い内容だったのでメモしておく(強調は筆者による)。
椅子に座り続けることが無理な人のための執筆論を語るジジェクの動画に字幕をつけました pic.twitter.com/9uDzmPCtmp
— ジョージ (@jo2geor2) 2023年3月21日
椅子に座り続けることが無理な人のための執筆論を語るジジェクの動画に字幕をつけました
私には書くことに関する非常に複雑な儀式があるんだ
心理学的な観点から言って、椅子に座り続けるのが不可能なのだ
だから自分自身を騙す必要がある
私はある単純な戦略を練り上げた
少なくとも私には上手くいっている
アイディアをメモしておくのだ
アイディアは相対的には練り上げられた形でメモしておく
ある程度は文章になっている 思考の流れのようなものだ
ある時点までは自分に言い聞かせる
私は書いているわけじゃない
アイディアをメモしているだけだ、と
そしてある時点に達すると自分にこう言い聞かせる
もう素材はすべて揃っている
あとは編集するだけだ、と
2つの工程に分けてしまうのだ
メモを作り、編集する
執筆は消失する
たいへん良い考えだと思う。気合を入れて書くぞ、というときはさっぱり進まないものだが、メモだと捗るし、それを統合するのも割と簡単だ。ツイッターで意見発信する人が多いのも、メモ書き程度のUIになっているからだろう。
追記(2023-03-23)
出所がたぶんわかりました。
— t_ (@t_snzk) 2023年3月22日
Zizek! (2005) - IMDb https://t.co/MI734d7biX
— Teterumu (@sumadoratyper) 2023年3月22日
グルグルしていてかわいい。皆様ありがとうございます。