ネガティブになりがちである。が、今回はそれを打破できるよね、みたいな話。
人間に対して失望するとか、自分は周りと比べて仕事が下手すぎる……とか、アニメのようにまともに青春を行えていない……とか、若さが失われていく……といったことで悲観的になりがちである。当たり前だが悲観的になると体力も使うしくたびれるので悪循環になる。しかし脳内ではそれが絶対だと思っているからなかなか抜け出せない。
実際のところ、世の中はきわめて平均的に推移するもので、まあ仕事ができないわけでもないし、それなりの青春はあるし、若さが失われるのは人類普遍の原理である。なのでなにも悲観することはなくて、やや尖ったりしつつも人間というのは全体で見れば平凡である。少なくとも、自分は大いに平均の部類に入るだろう。
もちろん具体的な困り事や問題に対しては策を起てたほうが良いのだが、悲観というのは策を起てるための起電力を奪われて動けないという状態である。これがいけない。つまり実際に問題があることと、悲観があるかどうかは、全く別層の話なので、問題があることは否定せず、しかし悲観はしないという振る舞いができれば万事ハッピーになる。
辛いことがなぜあるのか、厳密には辛いことがなぜ自分を覆い隠してしまうように感じられるのか、ということを考えると、単に自分の心に闇があるだけなのではないかと気づいた。つまり外側に問題があるのではなく、受け取る心の働きに全て吸い込まれて悪い方向に考えさせているという解釈である。
そのほうが合理的でもある。他者が、世間が、ネットがなぜこんなに酷いのか、といったことを考えても何も動かしようがないからただ辛いだけなのが、自分の心に闇があるからそう考えている、と捉えると、かりそめの問題意識や呼吸のしづらさにはなんの必然性もなくて自分が闇に囚われているがゆえにそう考えているのだと思えるし、対処が可能になる。逆に、自分が抱いている違和感には相応の理由があるに違いない、という解釈を深化させていくと、(極稀に実際に社会に何らかの理由があるかもしれないが)ただ違和感が固定されてそれを基点とした振る舞いが内面化されていって、自分が困っているわけでもないことに悩み続けることになる。
そういえば、伝統的な宗教もこうした心の動きを悪魔とか煩悩とか呼んでいて、祓おうとすれば祓える、というスタンスを取ってるのが面白いと思う。
フワッとネガティブに落ち込みがちだが、単に自分がそれを許しているだけであって、落ち込むのが必然なのでは全くないという知見が得られたのが良かったと思う。そして、現代のネットでは持て囃されがちであるが、「違和感」といったものを過度に信頼すべきではなくて、突き放しておくのが良いのだな、という知見も得られた。