日記です。
ずっと昔からのことだが、努力するのが下手で、なんとかならないかと思っているうちにあっという間に30歳になってしまった。とはいえまだ諦めたわけではなく、自分に可能な範囲で努力していきたいと思ってはいるのだが、ウーンもっと努力していれば……と悔しい思いをすることもままある。
30歳になってしまったので、あまりアドバイスしてもらえるような年齢でもなくなってしまった。このため一層の努力が必要になってしまう。コイツがんばってるな、と思ったら、声をかけてもらえると嬉しいです。
もちろん得意でやっていることはいくつかあって、ブログを書いて技術記事を上げていくとか、Scalaのコミュニティをなんとか運営?できているところとか、勉強会を開催するといったことはやっている。とりあえず手を動かせばやれる的なことは得意なのか、割とうまくいっている。
だが、地道な努力が必要になる分野は未だに苦手だ。ちゃんと段取りを組むとか、ある分野を勉強して最新の状況までキャッチアップするとか、積み上げが必要になる分野はどうも苦手で、大学までにやってきたことの惰性で空を飛び続けているようなもので、これに胡座をかいているとそのうち落下していく。落下していくのは怖いのだが、努力するにはなんらかの情熱が必要であり、それが難しい。
最近こういう記事を読んだ。
トランプ氏が扇動する世界で 森本あんりさんが考える「聖なる秩序」:朝日新聞デジタル (asahi.com)
話の主題はトランプの話だが、それとは別に、話の中に登場したいくつかの概念が、自分がおかれた状況をうまく表現しているな、と思った。
- SNSの台頭で、権威といった構造は潰され、限りなくフラットになった
- 高名な学者相手にレスバできる時代になった
- その一方、人間は社会的動物なので、自分を社会のどこかに位置付けて定義するし、それがないと不安になる
- 自分は世の中の中心線付近に居るだろうし安心、という感じ
- 暮らしの中にあったなんらかの「特別さ」が解体され、ぜんぜん特別ではなくなっていく
権威が信じられなくなり、何もかもがフラットに見えてきた世界では、『自分の中で本物だと直感できるかどうか』が正しさの基準になります
- ざっくり言うと、世の中を流れていた正統性みたいな概念が破壊されていく
自分もわりと信じるものが無い状況に今は置かれていて、そもそもあまり権威というものが好きではないという
努力とは賭けであって、賭けに勝ってベネフィットが得られるというなんらかの自信が努力を続行させるのではないかと考えているのだが、その自信はロジカルなものではなくて、無根拠であり、たぶん育ちの良さとか過去に受けた挫折みたいなパラメータから捻出されているのではないか、と思っているフシがある。
自分と努力を信じろッ!!!ということでもある。もうそうするしかない。その根拠などない。
元来、ギラギラと何かに宗教的情熱を向けるという局面が苦手で、というか自分の価値観や意味を他人にもらうのが嫌なので、音楽は好きだったけど吹奏楽部には入らなかったし、体育祭的なものも苦手であった。どうもソリが合わない。みんなで優勝目指そうね、というアレが無理であるからには、自分の中になんらかのロジックを組立ててやるしかないのだが、そこまで自分の頭に対する信頼がないというか、自分が考えた将来に向けたチャレンジなんて本当に信頼していいのか???と思ってしまう。でも最終的には信じるものなんて自分しかないわけで、信じるしかないんだと思う。宗教的情熱でもって自分を信じるしかない。これが極限に到達すると、一流アスリートの、あのキラキラした感じになるのだと思う。傍から見ているぶんにはオエーという感じだが、やるしかないのである。
やるべきことを淡々とやるのが最も近道になるのだろうけれど、淡々とやるのが本当に苦手で、うまいこと積み上げられるようなトリックを自分の中に組立てられないか、と最近は腐心している。
まぁもっと自分の得意不得意をちゃんと把握して、自分の欲求を把握して、うまく組み合わせろって話なんだろうけど、なかなかできていない。
自分を信じる前段として自分のことを好きになるというフェーズがあるような気もするが、これだけ他人の情報に溢れた時代で自分の事を好きでい続けるのは難儀なことだ。ついでに言うと社会全体に対する希望もあまりなくて、ひねくれすぎである。
一方、楽観的に行きたいものだ、というエントリも書いている。