Lambdaカクテル

京都在住Webエンジニアの日記です

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ジム行った / 自分が主人公というウソを信じられるか

久々にジムに行った。7km/hで30分走って帰ってきた。3.5km走ったことになる。途中でくたびれてきたが、なんとか走ることができたので良かった。

運動不足気味の人間が(7km/hとはいえ)30分も走り続けるには、忍耐しなければならない。忍耐は、自分が最も苦手な分野の一つだ。

最近デスストランディングをやっている。主人公のサムは重い荷物を背負って、平野や悪路、山岳や水辺など、あらゆる道無き道を踏破していかなければならない。サムは、その道程でぽつりぽつりと、自分に向けた鼓舞を口ずさむ。「いいぞ」「もう少しだ」「俺にはやれる」などなど。そういう姿勢が素直に良いなと思ってしまう。自分もジムでずっとサムのように自分を鼓舞していた。

悪路の配送もトレーニングも、大変だ。心を折ろうと思えばいつでもできる。その誘惑に落っこちないように繋ぎ止めているのは、きっとうまくいく、自分にはできるという希望だ。自分の日頃の暮らしよりもずっとタフなトレーニングをやっているアスリートは自分を鼓舞するプロだ。騙されているとすら言えるほどの前向きで一途な顔付きに、自分たちは時として冷たい視線を投げかけてしまう。シニカルで、いつも遠巻きに物事を見て、知ったような態度で、客観的という言葉を愛用する僕がいる。評論的態度は無力感の愛人だ。上から世界を眺めるのをやめて、世界を冒険するようにしなければならない。

苦しいながらに目的を貫徹することは自分を騙すことでもある。大きな目標は当然楽ではないからだ。慎重に検討に検討を重ねて、本当にやる意味があるのだという結論を導き出せたなら、あとは自分を騙さなければならない。ひょっとするとこれが一番難しいかもしれない。もう自分の選択を疑うことは許されない段階だ。

他人の存在が邪魔になることもある。自分は他人と比べて成果を上げられないだとか、長い時間走れないだとか、上手くないだとか、そういうこと。

忘れるしかない。自分の物語に没入するしかなさそうだということが分かってきた。誰もが自分の物語の主人公である、という大きなウソを信じる勇気が必要だ。大人になる頃には誰もが、自分は世界の主人公ではないということに薄々気付く。一度気付いてしまったなら、元のようには中々なれない。そしてそのウソをもう一度信じるのはより難しい。挫折を経験したことのある人ならなおさら。自分も簡単にひねくれてしまう。

ウソを信じられなくても、信じている人を眺めることはできる。駅伝や甲子園が人気なのは、そういう側面も多分にあろうかと思う。希望を捨てずにただ信じている人は美しいからだ。

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