Lambdaカクテル

京都在住Webエンジニアの日記です

エモい話/つくりものの幸せ

人は幸せになりたがる。だが実は、幸せが何なのかは知らない。人は幸せの定義を求める。

これが幸せなのだと心から安心して信じることにより、幸せ「になる」。

言い換えるとある幸せの基準に懐疑的であれば、その基準では幸せにはなれない。 そういう人がいて自分の幸せを傷つけられたと思うなら、きっと腹立たしくなるだろう。

国や社会やテレビが「これが幸せです、そうでしょう?」と定義してみんなでそう信じる時代は終わった。 これが幸せなんだと信じられるものが最初からある時代は来ないのだ。デフォルトの幸せがない時代と言っても良い。幸せは個人に委ねられてしまった。

インターネットは別に幸せを定義してはくれない。批判的な人間も登場する。好きなものにはいつでもそれが嫌いな奴がいる。

線香花火がぼとりと落ちる。途端に全ての輝きが消えて、自分が暗闇に溶けてしまうように、さっきまで照らされていた皆の顔が見えなくなって、皆が賛同している日々の幸せが陳腐で姑息的な、「ほんとうではない」もの、「つくりもの」、「まやかし」なのではないかという気がして恐ろしくなる。そして、そんな不埒なことを考えている自分が恐ろしくなる。疑ってはいけないものを疑っているような気持ちになる。政府よりも大きなものに反逆しているとしたら、こんな気持ちになるだろう。

何かを信じて熱心に反差別を論じるのも、何かを信じて旭日旗に夢を抱くのも、何かを信じて、何かを信じて、それは結局のところなんなのか?横にいる人間と同じでありたいというだけのことではないのか?そこに幸せの夢を見ているだけではないのか?

自分でこれが幸せだと感じるものを信じていく時代である。だがそれは難しい。 自分の幸せを客観視して否定する言説はいくらでも見つかるし、ぶつけられるのだ。 なんとなく共有されていた幸せというものが瓦解して、個々人にはその幸せ、幻想を守るだけの力が足りない。 信仰の終焉、と言ってもいい。

規範通りに幸せであれば誰もが称賛する時代が終わった。幸せは、(あまり)褒めてもらえない。 冷静であればあるほど幸せを信じられない。ある意味幸せとは狂気である。

壊れて飛び散った世界観たち。その中に閉じこもれば幻想の中にいられる。それが正解に最も近い。だがそれが「ほんとう」なのか?いや、その「ほんとう」「ほんとうではない」という基準自体が崩壊していて、これまでおおむね一直線に歩んできた社会が、おのおのばらばらになるだけだ。 個人は、国に代わった、自分で自分の拠り所となるコミュニティを見つけなければならない。思想の自由市場とでもいうべきか?思想の強度が高い、つまり幸せの定義を盤石ならしめることができる人間はコミュニティに生きることができる。思想の強度が低ければ旧来の国や宗教にすがるしかない。

社会的な幸せが喪失された現代、人は普遍的な幸せに向かうのだろうか。それとも局所的な幸せに向かうのだろうか。 それとも幸せを定義してくれる大いなる存在にすがるようになるのだろうか。

そんな中思うのが、他人の幸せにケチ付けちゃいかんよな。ということであった。

実際のところ求めているのは幸せではなくて、それが立脚する思想が磐石であってほしいという、安定を求めているのかもしれない。だから人は思想の正しさの対決である、政治的ムーブメントに狂騒するのかもしれない。

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