人間性が向上した月だった。精神的な健康が向上したので、ぶらぶら出掛けることも多い月であった。
- 暮らしでは意識低くしておく
- どういうときに自分は満たされていると感じられるのか
- 仕事の意義
- 自分が何かのいいなりになっているように感じるときに不快感を感じる
- インテリアとは情報を整理することである
- 過去なんて笑うことでしか癒せないのに、永遠に過去が残り続ける時代に生きている
- 自分という存在がつまらないのではなくて、見ているものがつまらないだけ
- なんかに酔ってる人間嫌だったけど自分の性格が悪いだけ説がある
- 別に社会に参加しなくても良いという社会にしたい
- 所有欲
- 見向きもされないものへの愛みたいなのがあっていいと思う
- 男の良さというのは時代に対して動かないことにあるのかもしれない
- ときどき、自分が老害になる怖さに圧倒されてしまう
- インターネットやってると、力技で何かをねじこむやり方が通用しそうに見えてしまうのだけれど、本当に世の中変わることはない、と信じたい
暮らしでは意識低くしておく
職業柄、テキストコミュニケーションではバチバチに真面目にやるという習性がついているので、ネットのテキスト情報でいい加減なものや非倫理的なもの、反知性的なものを見掛けるとまあまあ嫌な気持ちになっていた。普段の暮らしにおいても、ずっと世の中の事を考えたりしていっぱいいっぱいになっているところがあった。しかし世の人々はそんなこと考えてないようだという事に気付いたので、別にそんな事考えない、という選択肢を取れるようになってきた。オンとオフが必要。
インターネットに文字があると「ちゃんと読んで」しまう癖がついていて良くない。
インターネットは、ワケ分からん奴がワケ分からん事を突然言ってくる世界、という捉え方をしておく。ワケ分からん奴のほうが多すぎてめちゃくちゃになっているのがSNS。
どういうときに自分は満たされていると感じられるのか
世の中的な話題を追うとか、そういうのとは別に、どういうときに自分は嬉しい、といった概念をちゃんと持っておくと幸せに近付けるとおもった。幸せは、世の中についていくのではなく、元々自分の中にあるものを見付けることで得られる。そして、ネットの外に喜びがあるのだとすれば、ネット中毒から抜け出すこともできる。
仕事の意義
自分はWebの仕事をしているけど、こういう仕事って誰かの役に立ってるんだろうかと時々思ってしまう。無くてもいいといえばまあ無くてもいい仕事なのだ。しかし言い換えると産業の頂点にあるようなもので、他の仕事をしてくれている人のおかげで、先端の仕事をすることができている、ということもできそう。
ありがたいありがたいと思う一方で、他の仕事をしている人については心配することはない、という考え方をする。
自分が何かのいいなりになっているように感じるときに不快感を感じる
最近のインターネットは押し付けがましいところがあって、なんか不快になることが多い。 インターネットにないものを家に美術品的な形態で置いておきたい。それは価値とは無縁の概念だと思う。 合理性や生産性を超えた超然的な美を措定するという態度は、絶滅しそうなのだけれど、詩とかにひっそり生きている。
価値というのは認め合うものなんだな。絶対的な価値基準があるわけではなくて、それを認める人のあつまりで構成されている。だから認め合えば安心だ。
インテリアとは情報を整理することである
良くない部屋って散らかっている部屋のことだと一概に言われがちだが、より正確には「混雑している」だと思う。
変わらないものを追い求めたいという気持ちがある。それとは別に、楽しさを追いかけたい気持ちがある。 普遍的だと思ってるものがこれからも普遍的であってほしいという気持ちがある。 (でも、最近は正義の名のもとに人為的に変わっていくことが多い気がするんだよな。) 生き方のスタイルがそのうち暮らしの中心となり、生涯ずっと持っていくものになるのかも。 もちろん何をしたか的な価値的要素もあるだろうけど、あるスタイルで暮らしてること自体が良さだよね。
過去なんて笑うことでしか癒せないのに、永遠に過去が残り続ける時代に生きている
なんか酔った勢いでやらかしたりするなどすると、自己嫌悪をもよおすことが多い。とはいえそれは笑うことでしか解消できない。自分の過去は笑ってごまかすほうがいい。とはいえ、過去なんて笑うことでしか癒せないのに、永遠に過去が残り続ける時代に生きている。
自分という存在がつまらないのではなくて、見ているものがつまらないだけ
自分、つまんねー人間だなぁと思うときは、いや見てるものがつまらないだけだからそう感じるのだ、と思うことにしている。
暮らしとは公転運動のようだ。回り続けるから意味があって、中心に何があるかは関係がない。回り続けることで何かが起こっていく。
なんかに酔ってる人間嫌だったけど自分の性格が悪いだけ説がある
普通はニンゲンは何かに酔ってるのが普通かもしれない。
別に社会に参加しなくても良いという社会にしたい
社会ゲーム不参加を決めたい。そもそも元々コミュニケーション苦手だし。友達少なくても別に良い。 社会がどうなろうと俺とは関わりのないことだし、困るようなことは誰かが何とかするやろと思う。 超然的なノーを突き付けていきたい。世の中にクヨクヨしてないで、世の中を蹴っ飛ばせよと思う。
そういえば、何もしない日が怖かった。1日は、なにかを進めなければならないと思っていたから。 人は、時間軸の一本道じゃなさそう。社会の中で止まっててもいいんだ。なんなら、社会自体も別に劇的に動いていくわけでもなくて、止まってるんだ。自己啓発の逆というか。
世の中の問題に追われるのではなく、俺が問題を選んで追いかけるんだ。 「俺にとっての問題」かい?と考えたほうがいい。 俺様の実りある才能をこんなことで空転させるわけにはいかない……と考えることにする。
あと自分は、自分が「正しくあろう」としてるからいけないんだろうな。正しくあろうという気持ちを捨てよう。好きにやろう。なんなら、世の中からズレてるキャラで押し通せば社会とかかわらずにすむ……。
目立ってなんらかの実績を残しつつ生きてる人は少数派に過ぎない。だいたいの人は、フツーな感じに生きて、適当に寝たりして、なんとなく暮らしている。そういう感じでいいと思う。変にネットのインフルエンサーの演出されたパワーを取り込んで内面化するとつらいことになる。
所有欲
僕は所有欲は汚れているとみなして長いこと生きてきたフシがあって、なんか成金的で良くない、仏教的に全部捨てろ!!みたいな気持ちで生きていた。
だが、モノを持っているということは最も根源的な欲求だし、人権として保証されるくらいには普通のことである。自分は所有欲を自ら剥奪したことによって、「自分にとって価値があるのは自分がなにかをなしえる力のみ」というふうに考えるようになっていた。だがそれはあまりにも脆く、社会に依存していて、恐ろしいことなのだ。
見向きもされないものへの愛みたいなのがあっていいと思う
大事
男の良さというのは時代に対して動かないことにあるのかもしれない
なんとなく思ったこと。
ときどき、自分が老害になる怖さに圧倒されてしまう
ネットで見るような何もわかってねぇヤツに自分がそのうちなってしまうんじゃないかと恐しい気持ちになる。でもそういう恐れは「いやもうそれはコレでいいよ」って落ち着こうとする気持ちの邪魔をしてしまう。仕事だとそういう態度取ってると遅れていくから回避するけど、私生活ではまあまあ落ち着いていたいという気持ちと、時代遅れ人間になりたくない気持ちとがある。
インターネットやってると、力技で何かをねじこむやり方が通用しそうに見えてしまうのだけれど、本当に世の中変わることはない、と信じたい
狂った集団がエイッと権力に働きかけて、案外世の中簡単に狂ってしまうのではないか、みたいなことをコロナ禍の陰謀論とかで狂ってる人を見て思うようになってしまった。市議会議員が陰謀論にハマって怪しい発言してる、みたいなのもたまに起こる。
他には、キャンセルカルチャー的なやつで、なんか迂闊な事言った人間を灰になるまで燃やす、みたいなのが続くと、すぐ機能不全になるだろうなと思ってしまう。