合理性と論理は人間の道具であり、それを操って人間が社会を維持しているように見えるが、それは錯覚で、実は人間は合理性に隷従していて、「合理的に」どんどん排除されたりクビになる。合理性に逆らう術がない。
— めるくん (@windymelt) 2020年2月12日
主語が大きい話。自分の中の一貫性と客観的な一貫性はしばしば一致しない。人間が2人以上存在する以上、他人である以上、社会の中の個は、すなわち自分と社会との関係は、本質的に相容れないのだ。
- 自分としては楽器をやっているほうが楽しいのだけれど客観的に見ると世間で評価されるようなレベルに達していない。
- こういう趣味があるのだけれど世間からは煙たがられている。
- 自分としてはこの思想を支持しているが世情はそれには同調してくれない。
- 自分はこっちの服装が好きだが世間的にはそれは似合わない。
- 好きなことをして生きていたいが世界はそれを良しとしない。
- 世間が許容しないような、あきらかに正義ではない趣味がある。
- 自分はこういうことをやってみたいが、他者は別のことを要求する。
こういったことが人間にはよく起こる。
心が死なないようにするには、自分の中の一貫性を大切にしたほうが良い。
だが生きていく上では客観的な一貫性を保持していたほうが生きやすいだろう。家族が増えたり、仕事を持ったりすると、背負うものが増えると、客観的な一貫性、世間的な正しさを優先しなければならない。
子供の心を忘れないようにしようという言葉があるが、安易にすすめないでほしい。子供の心、つまりピュアな心であり続けるってことは、自分の中の一貫性を(それがたとえ世界の基準からかなり逸脱するものであっても)優先するということだし、他者の立場を慮らないということだし、平穏よりも闘争を選び、振り上げた拳を降ろさないということなのだ。
自分の一貫性に目を瞑って、世の中の正義におもねる人間になるか、世の中の規範に目を瞑って、自分の独り善がりな論理に生きるか、することになる。もしくは、許容可能な範囲に生きている人間は、無意識のうちにこの矯正が終わっている。
ある程度他人に目を瞑っていれば気にならないのだが、他人に目を瞑れない人間のなんと多いことか。日陰で小さく咲いている他人に普遍的な論理を振りかざす人間のなんと多いことか……。