Lambdaカクテル

京都在住Webエンジニアの日記です

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個に閉じた人生哲学 -- 正月

正月は帰省していた.実家は雑なので,いい加減な暮らしをしている.自分は神経質なので,なんでこんな人間が生きていられるのか,と半ばあきれ半ば怒るみたいな感じだが,まあ自分も完璧主義すぎるなと反省するところがあり,どの道家からは出られそうもないので,メンタリティについてよく考えていた.

考えていたことをScrapboxにメモしていて,ある程度の分量というか,まとまった感じになってきたので放流する.

思考

頭の中の話です

モノローグ思考

自分は思考が苦手で,考え事をすると反復を起こしてしまう.同じことをずっと繰り返し強迫的に考えてしまって,精神衛生がどんどん悪化する.しかも,自分が同じことを考えているのではなくて,ダイアローグ的に進んでいく.

どういうことかというと,誰かとの対話という形式で物事を考えるクセがついていて,思考の中に他人が登場して,自分と対話をする中で考え事をするのだけれど,残念ながらずっと自分に否定的な返答をし続けてくる,といった感じで,こう言語化するとどうも正気とは思えない感じで,統合失調症みたいな感じもする.

まあそういうわけで,ああ自分はダイアローグで思考してしまっているな,と気づいた.ダイアローグで考えるということは,他者の存在が突然思考に紛れ込むということで,なんかプライベートがない感じがして,緊張感を生んでしまう.

そこで,モノローグで考えることにした.つまりよくある独り言みたいな感じで,無に向かって気取ったおしゃべりをするという,おそらく一般的な脳内で考え事をするときの形態に意識して近付けている.すると他人が登場しないので考え事に深みが出てきて,集中力がかなり上がっているし,突然ドキドキするということもない.

笑い飛ばす

とはいえ,調子悪いときは不毛な事を考えてしまうこともある.今までだと,「なんでこんなこと考えてるんだ」みたいな感じでさらに考えてしまう,という感じだった.

これでは不毛すぎるので,「またしょうもない事考えてるな」と笑い飛ばして気にしないことにした.かつては完璧主義だったのでこれを許せなかったけれど,帰省したら実家で親が屁をこいていてダラダラしていて,学ぶところがあり,人間生きていくのに厳密な一貫性は不要だということを悟った.

公私分離

公私混同してはいけない.絶対にやらないようにしている.とはいえちょっと仕事が遅くなるとかそういうレベルは全然かまわなくて,一番良くないのが,風呂に入っているときに世の中の事を考え,正義について考え憤るみたいなので,生産性が全く無くて最悪.プライベートなシチュエーションでムズカシイ事を考えてはいけない.

とはいえこういうムズカシイ話は人間を惹き付けるテーマらしく,床屋に行くとオッサンがくだをまいているような話題は全部ムズカシイ話になる.キャリアパス,人間のあるべき姿,みたいな,公に属する話題は難しいのでやらないほうが良い.

ところで自分はこういうのを混同しがちで,なぜかというと,自分は一貫性のある人間が良いという価値観で暮らしてきたので,本音と建前を使い分けるのはカッコ悪いと思っており,それを実践しながら生きてきた.生きてきたところこういったムズカシイ話題と向き合わざるを得ず,すると自分の本音と世の中的な正義の疾風怒涛とをすり合わせなければならず,精神がどんどんすり下ろされていくのであった.だから27年間の知見を総合すると,やはり本音と建前はあったほうがよいということらしい.

そんで,今はプライベートだなーという認識をちゃんと持つ.公は緊張感高いけど,私事に入るとスウェットでダラダラするという感じ.ちゃんと人間のありのままの姿を打ち出していくべきで,そこに他者の視線は介在してはいけないと思う.

日々を楽しむ姿勢

これも公私分離みたいな話題なのだが,世の中では向上心があるのが良いこととされ,正月にもコードを書いていないとエンジニア失格みたいなことを宣うCTOもいて,合理的に暮らすのが無条件に受け入れられていて,これに背く大罪人はインターネットによって裁かれることになっている.

だが自分はこれには懐疑的で,人生の主体はその個人なのであって,好きな世界観に基いて暮らすために,糊口を凌ぐために日銭を稼ぐために仕事をし,なんなら向上心もあればよいし,それが自分に合った仕事ならより良いという価値観で暮らしている.自分で時を刻むべきであって,他人には絶対に刻ませないという信念がある.

なので正月はずっとおせちを食べており,たまにKindleで読書をするけど,たわむれに一節を暗記しようとして上を向きながら暗誦したりしていた.しかしそこにはキャリアパスは無く,向上心のかけらもない.とにかく楽しさで駆動していた.人生とはこっちのほうが良いという価値観である.

自分はこれを個に閉じた人生哲学と呼んでいる.

慣れる

慣れは怖いというイメージがずっとあり,慣れそうになったら襟を正す,みたいなロジックで生きてきた.すると何をするにもモタモタしている感じになってしまう.

なんで慣れるのが怖いかというと,大切な知恵を落とすのが怖いという不安があり,つねに自分の行動を点検している,という感じ.慣れてしまって見落としたまま理解した気になってしまうのが怖い.自分が情報系学科という正当ルートでコンピュータを学習していないことへのコンプレックス的なものがあるのかもしれない.

自分よりなんか良い方法があるはず,という一種他力本願なところがあり,自分なりのやり方を見つけて慣れるのではなく,完璧な方法をずっと探していてそれで落ち着くことがない,ということである.

こういう感覚がずっとあった.すなわち,安住するな,安住は悪だ,向上し続けろ,向上は善だ,現状を疑え,という感じのもの. とはいえ,賢人は常に安住を嫌い,向上し続け,現状を疑い続けたかと言えば,そんなことはなくて,時折新たに挑戦し,コンスタントな間隔で向上し,たまに現状を疑う,くらいだと思っていて,賢人も人だし,享楽的なところもあるはず.

最高の完璧な方法が見付かる保証はないけれど,順応性を高めることはできて,適宜順応して良い方向に修正すればよいのであって,勝手に先回りして「これじゃダメだ」とへこたれるのは間違っている,と思えるようになった.

合理性

インターネッをやっていると,異常な他人がたびたび登場して,現実の分布とはおよそかけ離れた頻度で狂人に遭遇してしまう.だが現実には,世の中はある程度合理的に動いていて,合理的に考えるべき.

合理的でない異常な存在のことを視野に入れて物事を考えるようになると,思考という概念が成り立たなくなっていって,自分も狂人サイドに落ちていくような不安がある.

なので自分が考えるときは,合理的な側に立つべきという学びがあった.といいつつ,常に合理的であることはできないので,常識的な範囲で合理的なのが良い.

リラックス

リラックスの話.

帰省

帰省したという話は前にもしていて,こっそり帰省したところ,実家は適当で,のんびりしている.自分はそういうところが好きで,実家に帰るとだいたい調子が良くなるけど喉はホコリでやられる.

せわしない,という概念があると思っていて,都会ではどうなのか知らないけど,地元では,高齢者を中心に,せわしなすぎる人間は良くないという価値観がある.自分もある程度これには同調していて,理由はわからないけれど,壺が好きな茶人,みたいな人と,お笑い芸人,みたいな人とがいたとして,どちらも最高峰の知性があるとしたとき,前者を選ぶと思う.

でも世の中的にはせわしない方を信奉しているようなところがあり,とにかく騒いで賑やかになれば良い,話題性をアピールできれば良い,過激な発言で耳目を集めれば良い,みたいな価値観が充満していて,自分は咽せてしまう.

なのであまり支持されないかもしれないけど,せわしなさを暮らしの中心に据えるのはやめたい.

ところで実家では基本的に義務から解放されていて,仕事はないし,たまに掃除機かけたりするくらいで,それも必ず達成できる確実なタスクなので心労は無い.とにかく自分勝手に暮らすことができる.

しかしながらインターネットをとりまく世間一般ではかなり義務や約束事があり,乳がでかい女がポスターに載っているのでけしからんとか,なんか窮屈であり,約束事の多い社会は大変だなと思っている.

田舎では,皆雑で,ジャージでコンビニに行っても良いし,運転さえできれば良いという感じで,金オンナサイコ~みたいな感じ.他人の領分を侵害しない,というのはどっちかといえば都会的な振舞いだと思っていたけれど,都会では既にネット化されきっていて,そこでは戦闘民族が跋扈していて,正義を求めてさまようマシーンがうろうろしていて,愛国活動や弾劾活動を行っており,皆狂ってしまわないのだろうかと心配になる.

まあそんな話は良くて,田舎なのでたぶん自分から半径5kmにはScala書ける人はおそらくいない,という感じで,そう考えると自分が今ソフトウェア開発で食って暮らせているのは素晴しいことだと思えるようになってきた.インターネットには素晴しい人があまりに沢山いるので,世間の標準がおかしくなっていって,自分の価値みたいなものを考えるとき,非常に不安になってしまうけれど,田舎基準で考えると,非常にすばらしいという事になって,自信が持てそうだと思った.

他者

さっきも話したけれど,普通は,他人にとやかく言わないのが普通だと思う.がしかし,インターネットは戦場であり,お前の普通は押し付けだッ!!!という戦闘が繰り広げられている.でも普通は他人が楽しくブーンドドドドみたいに遊んでいるときに土足で荒らすのは無礼であって,武士だったら斬って捨ててしまうと思う.そういう常識は忘れてはいけないと思う.

そこで,自分の事に集中するのが良い人生哲学だなと思うようになった.社会正義も良いけれど,僕は自分の領分でがんばるのが良いと思う.

他人に期待しないということも学んだ.リアル知人だと理性のある人間が多いので普通に相互理解80%くらいできるけど,インターネットで見る赤の他人はしょうもなすぎる.なので相互理解不可能で,他人に期待してもしょうがないという悟りが得られたので,他人に期待しない.

インターネット戦場談義の話をするならもう2つほどあって,まず,負のエネルギーで集まってる人とは距離を置くべし,という学びがあった.負のエネルギーとは敵対とか排斥感情とかそういうもので,そういうものは容易に人を引付けるし,集団として大きく見えるのだけれど,所詮は負のエネルギーなので,何かを変えようとか,明確なビジョンがあるわけではなく,○○は許せないよね,みたいな感じで繋がっているだけなので,連帯することもできなくて,世の中を変える力で言えば見た目よりもはるかにしょぼいと思う.なのでこういう集団に遭遇しても気にしなくて良いと分かってきた.ポジティブな力で集まっている人たちは良くて,何かを変えようとか,これが好きだッ!!!みたいなものがあるので,連帯できるし,計画性もあるし,議論もできる.負のエネルギーの人たちは敵味方で物事を考えるので,議論できなくて,仲間割れして踏み絵をいつもしている.

もう1つの話がインターネットのコメントで,コメントというものが今まで役立ったことほとんど無いなという事に気付いてきた.コメントというものは基本的に思い付きをそのまま書くだけのプラットフォームなので,思慮に富んだ滋味な知恵を得られるということはほぼ無くて,うんちみたいなコメントを見て不愉快な気持ちになるほうがはるかに多い.なのでコメントは見ない方針で行く.

コメントの話に関連して,今はTwitterに思い付きをそのまま書けるけど,もうちょっと考えるべきで,仏教的に言うと不妄言という感じ.他人の目を引くためになんか言うとか,主張したいわけでもないことを書いてみるとか,ニャーンみたいな投稿をするとか,そういう垂れ流し系のコンテンツは良くないと思っていて,そんな事を言うと昨今のインターネットの潮流を全て否定しているような気がするけれど,雑に発せられた投稿というのは内容も雑であって,建設的な要素は一切無いと思う.こういうことをしているといずれ脳内で考え事をするときもノイズが多くなっていって,まともに物事を考えられなくなると思う.

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