Lambdaカクテル

京都在住Webエンジニアの日記です

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自分の人生が全て上々だとしたら

徳高めてますか。自分は普段から徳を高めたい(できればそれで得もしたい)と思っているので、あくまで合理的な方向性での良い考え方というものを追求していたりする。思想でハッピ~!みたいな感じではなく、自分の精神が安定して、しかも堅実である、という自分なりの人生哲学を鍛えている。

で最近思っているのは、悲劇のヒーローになってはいかんということである。誰も自分の事なんか分かってもらえない……とか、どうせ自分は負け組だも~ん、という態度だと損するということが言いたい。換言すると、ひねくれてはいけないということ。

とはいえ、人生なにかと傷付いたり心がへし折られたりするような体験がある(無いなら幸せな)もので、そういうとき「自分の人生失敗だった……」と思ってしまうかもしれない。かく言う自分も、ふいに言われた「失敗だったね」という言葉を、ずっとずっと、10年以上引きずっている。

しかしこの「自分は失敗作である」というテーゼが、良くない。一度そういう思考様式に耽溺してしまうと、なかなか抜け出せないし苦しい。無意識のうちに自分の行動に鍵をかけるからである。本当に失敗だったということを認めたくないので、仮説が証明されうるチャレンジングな状況を避けようとするからである。失敗だと主張していれば、失敗だということを認めずに済む、という倒錯の中に自分を置くからである。セルフネグレクトである。それは大変つらい。

どうするか。自分の人生全て上々だなと考えたほうがいい。何かを目の当たりにして「自分はそれに値するか?」と問うたとき、常にイエス!と言えるなら最高だ。おしゃれをしてもよし、勉強してもよし、明るく振る舞うでもよし、何かを求めても、訴えても、喜んでもよし、というわけである。調子は上々だからどんどん前に進める。

どうしてか。自分は「自分に自信を持つ」という言葉が苦手であった。自信には根拠が必要だと思っていたから、なんらかの根拠的な要素が無い曖昧なものを認めたくはなかった。実績とか成果とかイケてるとかそういうものを引き合いに出さなければ納得がいかなかった。しかし「自分の人生上々だな」と思うくらいなら案外うまくいくことに気付いたので、この考え方を採ることにした。誰かとの対比から自分の体験へと考えの軸が動くからだと思う。

社会に目を向けてみる。世の中には、お前はそれに値しない(not worth)、という考え方が跋扈している。良くない。結局そういう態度が自らを苦しめていることに気付いていない。ブスだからとか、他の誰かと同じようにできないからとか、男だから女だからとか、上手じゃないからとか、歳だからとか、なんかの思想を持ってるから、肌の色が違うから、成果を出していないから、世の中のためになっていないから、生産性が無いから、とか。しかし、そういう態度を引きずっていると、全てが前に進まなくなる。足の引っぱり合いが始まる。このゲームは無料でできる。足を引っぱるだけならタダでできるし、された側は大層不愉快になる。こういう態度の裏にあるのは、自己愛の低さというか、自分の無価値さであって、それを他人に強いている。個人性を否定し、自分をクズ呼ばわりするのを厭わない何かである。

自分の人生失敗だと思っていたら損する。それ以上自分の人生を減らさないような無難な態度をずっと貫くことになる。でもそれはつまんないし、それこそ不幸である。 だからなんというか、分断を煽ったり、勝ち組負け組とか、上級国民~みたいな言葉を使っていると、まじで自分を不幸にするからやめたほうがいいと思う。

まとめると、自分も他人も含めた個人を大事にしていくのが一番良いと思う。他人を不意に切り付けるようなコミュニケーションはしないことだと思う。個人を押し潰すような存在からは、離れることだと思う。個人主義といってもいいかもしれない。

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