ゲームをやり終わったら、間髪入れずにまた別の何かをしている自分がいる。休憩というか、あ~終わったなという日常の無の時間があってしかるべき気がするし、小さいころはそうだったかもしれない。今では人の手を握るよりもスマホを握っている。
日常への帰還を果たす無の時間はここのところ立つ瀬がないようで、どんどんわきへ追い遣られている。可処分時間の取り合いという、人間の暮らしを完全に捨象して均質な経済学上の商品にしてしまうコトバも、最近はもう当たり前の概念として受け入れられている。われわれは商品として自分らを再定義しつつある。
つねに非日常が間断なくおとずれる。とめどなく。スマホを開けば、即座に非日常が展開される。許せないニュース、よくわからないインスタグラマーが雨の日にキャンプする道具を紹介する様子、訃報、対立陣営への攻撃、攻撃された陣営の慰撫。あまりにも我々はスマホを開くことに慣れきっているので、自らがその非日常を部屋に招き入れていることに気が付かない。しかし我々が居を構えているのは日常であり、たまねぎの価格であり、栞の代わりに本に挟まれたスリップであり、玄米茶の残りが減ってきていることである。そこの境界線は日々曖昧になる。
たぶん、そのスキマを何かで埋めずに非日常からの逃避先にできる人間が、偏狭と圧迫からこの先身を守ることになるだろう。その一方で、日常の道具にも非日常性が演出されるようになってきている。コンビニの商品名は年々伸びていく。