今日は色々と技術的な実験をしていたが、最終的に動かすことができたのでよかった。またたまっていた洗濯物や食器洗い等も片付けることができたし、コンディショナーの詰め替えも行うことができた。今のところは申し分ない家事遂行能力を持っているというわけだ。
ちっこい幸せを拾い集める
幸せのある場所に、心は根を張る。心が根を張っていれば怒涛のように押し寄せてくる不安や恐怖に押し流されずに泰然と構えていられる。
幸福や不幸について自分が考える時、真っ先に思い浮かぶのは世の中で話されているような他人の幸せや不幸だろう。だが自分が拾い集めなければならないのは、紛れもなく自分の幸福なのだ。
自分自身の幸福や不幸は、必ずしも大きいとは限らない。むしろ手に取るに足らないような小さなものが大半を占めるだろう。でも自分は、テレビの電波やインターネットの網を通じてやってくる、刺激的で大きな幸福や不幸についてあまりにも耳にしすぎているものだから、身近に存在している物事のことをすっかり忘れて、ただ話題だと言うだけで、自分一人が損をしたくないがためだけに、世界の半分よりも上に居たいがためだけに、どこか遠くの場所にある幸福や不幸について、欲望を抱いたり危機感を抱いたりする。
幸せは種を蒔かなければ育つことも刈り取れることもないのであって、大きな幸せを得るためにはそれ相応の労働や対価が必要になるだろう。そもそも、大きな幸せや不幸せは、大抵避けがたい運命にあって、もがいたところでもうどうにもならないことが多い。その一方で、我々が普段日常的に遭遇するような幸せは、わざわざ種をまいて収穫するような種類のものではない。もっとありふれた、一見地味な、道端に転がっている石のようなそっけない表情で我々の許を訪れる。そういった幸せを発見できる訓練をしたいと思っている。
小さな幸せは強い。なぜならたくさん抱えて生きていくことができるから。なぜなら誰のものでもない自分だけのものだから。なぜなら大きな幸せはいつか朽ち果てていくかもしれないが、小さな幸せを見つける能力は自分が死ぬまで失われないから。
だから、テレビの電波に載らないような、インターネットの網に引っかからないような、ちっこい幸せのことをもっと考えてみようと思った。