幸せな人、幸せなカップル、幸せな家族。「幸せ」という言葉は、人を表す言葉にかかりがちだ。
だが本当だろうか。人が幸せなのだという価値観に囚われると、自然と自分を幸/不幸の枠組みで捉えるようになる。
幸せは他者や物事の中に発見するものだと気付けば、幸せでいるのは存外たやすい。長年のインターネット漂流生活がそう直感的に告げる。
空が晴れていれば幸せだし、お気に入りの腕時計を眺めて幸せだと感じる。うまく仕事が進んだときにも一種の幸福を感じることができる。幸福は、自己と他者とを隔てる自意識の檻に頼らずとも享受できるのではないか。
そして、幸福とは今現在に見出すものであって、ぼんやりとあれこれ手を出してみてもどうにもならないものだ。一発逆転などない。今そこにあるものを享受する以外の方法では全く手に入らないのだ。論理的に「こうなるはずだ」という枠組みからは幸せはにじみ出ない。発見するしかない。俺は風呂に入る前に全裸でウロウロして、これも一つの幸せの形だなと直感的に悟って、この記事を書いているのだ。
幸福は論理ではない。幸福はここにしかない。幸福は盗めない。そう考えることで、目の前の物事に集中して気力を集中することができるし、世の中がどうかしているような不安に気を取られることもない。
↑新聞みたいな文体だ