二面性を持ったほうが良いのだろうなという気付きがあった。二面性とは、思っていることをそのまま言わないということだ。意見が合わなそうな相手にわざわざ噛み付かない。おおっぴらに世間様に物申さない。知らない人に反論しない。 二面性の対極にあるものが一貫性である。内心と振舞いの一貫性を強く保とうとすると、それがそのまま周辺を巻き込む形になり、他者との衝突に発展する。
インターネットでは、おのおのの内心がそのまま表現されているから、どうしても心がざわつくことがある。他人が内心をありのままに表現している。自分はしていない。このような不均衡な状況を前にすると、ヒトはやっぱり主張したくなってしまう。
以前は、何か発言しなければ世の中に押し流されてしまうと思っていた。もちろんそれはある程度そうなのだろうけど、ただ発信しないからといって完全に無視され一瞥もされないという世の中ではない。
何かを主張している人が勝手に全部決めて、全部動かせるわけではない。協力してもなお重い岩を動かすことは難しいのに、どうして協力無しで動かせるだろうか?物事をや?ましてや他人というものは天と地と同じで、動かしようがない。SNSで他者に怒りをぶつけて思いのままにしようとしている人は、その事を忘れている*1。
しかし巷の思想家タイプの人には、バズというテコを使ってエイと世の中を動かせるという思い上がりがあるというか、自分達はそういった軽業をやってのけられると思うのだろう。一種の革命思想に近いと思う。敵の弱点を突けば自分たちの世の中にできると思っている人は案外多いし、ひろゆきたちが持ち込んだ論破文化のせいでそういう人はどんどん増えているように思う。他人を動かすのは難しいけど、ワンチャン世の中をハックしたら行けるのでは?という一発逆転的な思想は、じわりじわりと浸透してきている。それは、何かの重大な裏返しのように思える。
二面性がある状態を保てている人は、一見何も主張していないように見える。自分はそれが怖かった。しかしちゃんと内心は持っている。内心は動かせない。協力しなければ物事は動かない。物事が動かなければ世の中も動かない。
ところで、自分は日本語を書くのが好きだ。英語を書くのも好きだったので英語の成績はピカイチだった。そういう性格もあってか、発信することを全く厭わない。あまりに当たり前の風景になってしまっているので気付かなかったが、普通の人はこのペースで数千文字の記事を書いたりはしない。これはこれで楽しくやっていこうと思う。
*1:仏教の説話っぽい文体。