Lambdaカクテル

京都在住Webエンジニアの日記です

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潔癖になりすぎないようにする

今こうして近所のスタバで日記を書いている。終わってしまった、錆びついたゴールデンウィークの弔辞を書くためである。ドリップコーヒーを頼んだらちょうどストックしてあった分が切れたようで、最初から淹れなおした分を作ってくれた。いつもより香ばしい気がする。開放的な店内で飲むコーヒーは、家で閉じこもったまま作るコーヒーとはまた違う良さがある。

ゴールデンウィークは遠出はもとより、普段行き慣れている店にも行くことはあまり無かった。1回だけ友達と買い物に行ったくらいで、それくらいはまあ精神的健康を保つ範疇に入るだろうし、バチは当たらないだろうと思っている。多分、日本中の暇な人間皆がそう過ごしているのだと思う。そうして自分史上最もやることのないゴールデンウィークが幕を下ろしてしまった。

とはいえ、誰にも会わないということは必然的に内省の機会をもたらすもので、これまでにない気づきもいくつかあった。自分は暇さえあればこうして考え事をしている。それが良い結果に結びつくこともあれば、単に神経質になるといったこともある。今回は前者だったというわけだ。

潔癖

何事もとことんまで突き詰めるという態度は、例えば数学だとか趣味に関しては効果的なものになるのだが、世の中一般的な話題に関して突き詰めた態度を取るとあまり良い事がない。目の前に君臨する唯一の現実を変えることはできないので、多かれ少なかれ、折衷妥協をして暮らさなければならない。暮らさなければならないというよりも、気にし始めるとキリがないので、おおらかになった方が良い、ということだ。

言い換えると、世の中一般に対して潔癖症にならないようにしましょう、ということ。粗探しをするのは一瞬でできてしまう(この日記に対しても無数の粗探しを行う事が可能だ)ので、ついついやってしまうし、インターネットをやっているといろんな人間と出会うもので、袖触れ合うのも他生の縁、社会性みたいな要素が高まっていき、そして鎧袖一触、社会悪を許さないぞッ!!!偉そうな奴を正義で倒してやるぞッ!!!みたいな感じになってくる。しかしまあ気に入らん事に反発することは仕方がないのだが、反発自体が何かを生むこともまたないのであって、(今知り合いにめっちゃ似た人物がスタバの前を通りがかったが、別人だった)、いけすかない奴(それは無限に見つける事ができる)を見つけてどっちが正しいか決めようぜ・・・みたいなことをするよりは、人生をエンジョイする、自分磨きを行う、みたいな方向性にシフトして行った方がいい。

そういえば、自分磨きみたいなワードにネットの民が異常に厳しかった時代があったような気がするのだが、そういう冷笑的な時代があったことを忘れてはならない。生きていると結局、自分で自分の機嫌を取り、自分で自分の人生を演出し、自分で自分のやる気をエンパワーメントしていかなければならなくなる時がやってくる。そうなれば、やはり自分磨きと呼ばれる行為を行い、自分で自分をケアし、自分の魂を一等地に置く行為をなさねばならない。それは徹頭徹尾主観的な行いなのであって、客観的な評価や即物的な価値が物事の趨勢をほとんど決めてしまう現代にあっては、かろうじて残された主観性のユートピアなのである。少なくとも、自分の主観を客観だと誤魔化して物事の良し悪しを決めてしまうよりは、主観を肯定してどっぷり主観に浸かるがいい、というものである。

物事に対して潔癖になりすぎると、やれ他人がああだとか、弱者男性論は気に入らんだとか、正しさだとか、正義だとか、中韓経済崩壊みたいなニュースばかり見るだとか、そういうことになっていってしまう。そういうことになっていってしまうと、粗を探すのに脳が最適化されてしまうのか、エンジョイアンドエキサイティングみたいな心理状態になりにくくなっていく。白か黒か、あるかないか、善か悪か、みたいな考え方をするようになる。一緒にエンジョイしようぜみたいな発想が起こらなくなっていく。許せん今すぐ直せというメンタリティになってしまう。結論に縋るようになっていく。これは良くない。

潔癖になりすぎないということは、水墨画のような世の中の濃淡を愉しむということであって、あえて白黒はっきりさせないことで人の業を肯定するという、自分が前に向けて進むための味方なのではないか、と思うのである。

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