これはエエのか?それともよからぬことなのか?みたいなことを割とよく考えている。なぜかというと善悪の基準は自分で持ってた方が良くて、しかもロジカルであるほうがよい、と思っているから。みんながなんとなく許してるからいいでしょ、と流したり、なんとなくダメだろ!とか、常識で考えろ!みたいな怒り方をする大人にはなりたくない。
まあそのためか割と物事を善悪で断じる傾向があるらしい。して、そういうことを考えるのは普通に疲れる。この革のバッグエエなあ、と考えたそばから、いや動物なんとかの観点から革を使うのは良くないみたいな話もある、というふうに話が逸れてくる。
一般に、人はその辺気ままに断定していて、自分が依拠する正義を全く疑わないので、ダブスタっぽい挙動をする。割と都合よく物事を考えるわりに、かなり断定的にそのことを語る。動物を檻に入れるとはけしからん、みたいに怒った後で、焼肉食ってる、みたいな感じ。そういうダブスタはダセぇなぁと思いながら大人になったので、割と整合性を気にする。都合良い事だけ言ってんじゃねえぞと、腑に落ちない。一面的な正義が嫌いだ。論理があやうくなると「それは何某が考えるべき事だ」と逃げを打ったり、黙りこくって不機嫌になるくせに……とどこか醒めている。
まあ自分は学者ではないので、なんなら学者であってもプライベートでは、かなり都合よく物事を考えても良いのかもしれない。それが表出すると、専門外の分野に学者が首突っ込んでしばかれる、みたいな感じになる。要はバランスで、何にでも整合性を求めても世の中は別に整合しておらず、得することがないのだが、じゃあ全く不整合な、論理的に辻褄の合わない暮らしをしていると、何言ってんだコイツはとなって社会的には死んでしまう。
そこで、暮らし一般においてはだいたい都合の良い風に考えるのだが、専門分野については厳密にやる、というのが良いかもしれない。ところで、社会や政治みたいな話題では、他人と自分をどうするかという話題であり、しかも論理を超えた「俺はこう信じるッ!!!」みたいなところがあるから、プライベートとパブリックが交わってしまい、SNS喧嘩祭2.0が炸裂してしまう。
自分は「これはただの都合の良い思い込みやろセンサー」が発達しているので、自分がそういうこと考えてると不誠実やなあと思ってしまう。都合良い思い込みだと認知できる点若干マシだと思っている。「だってそうだから」という詭弁を弄さない。美しい人徳である気がする。この都合の良い思い込みを、方向だけはポジティブな方向に変えましょう、というのが宗教の役割という感じ。神様は見てるから上手くいくよね、みたいな。夢見る人、というのもこの類だと思う。逆に、ネガティブな方向に都合の良い思い込みをしてる人はヘイトとかにハマっていくと思う。やっぱり〇〇はクソだな、って自分に言い聞かせてる人はたくさんいる。
つまるところ、現実世界は、都合の良い思い込みを排した時、極めて無味乾燥としているので、人間が生きるためには、ある程度ポジティブな都合の良さが要請されるというところになるとおもう。ちゃんと考えるというのを突き詰めると人生としてはクソつまrwない、ということ。
別の話題として、そういうプライベートな、厳密さに欠いた、一面的で断定的なことばは、パブリックで、厳密な、多面的で反証可能性のある言明と同じフィールドで扱われてしまい、ちょっと不用心なことを言うと燃えてしまう、というところがあると思う。矛盾したことをエラそうに言ってる奴は手斧で叩ッ斬る、というのがインターネット蛮族の正式なマナーなので、あまねく死が待っており、プライベートとは何か、みたいな感じ。でもプライベートなことを語る場はインターネットへと追いやられている気もする。つまりみんなに全部見られるみたいな感じ。
オチがない。