Lambdaカクテル

京都在住Webエンジニアの日記です

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文章を読むことが苦手になっていく

家の便座が漏電して、ぶっ壊れてしまった。冷たい!と声をあげそうになってしまったのは数日前で、気付くと便座が冷たいしランプが点灯していない。コンセントを刺し直すとしばらく動いているのだが、またしばらくすると動かなくなっているのだ。うーんどうしたものか、と思って、とりあえずコンセントを突き刺すとバチンと大きな音がして家じゅうが真っ暗になってしまった。ブレーカーが落ちたのだ。しょうがないからコンセントは抜いたまま、暮らしている。こんなことは他にもあって、エアコンは水漏れしていてバケツに水を受けているし、たまに部品が落ちてくる。洗濯機のフィルターも詰まっている。うんざりだ。

そんな目に遭ったり、今日はたまたま雨が降っていて気圧の具合も悪かったのか、すっかり脳味噌が動かなくなってしまった。長い文章を読もうとすると目がぐるぐるする。風呂に入ってもグッタリしている。 頭の中に選挙カーが引っ越してきて、音声の代わりに文字を流しているといった具合だ。

しかし長い文章があまり頭に入らなくなっているのは今に始まったことではなくて、 わりかし昔から、筋道通った長い文章を読むのが苦手になってきてしまった。つまみ食いをするように、あるいはテレビをザッピングするように、今風に言えば動画をスキップしながら見るように、文章を読んでしまう。頭の段落のちょっとを読むと、無意識に目が次の段落とか、Webだとサイドバーとか、目次とか、そういう散漫な動き方をしてしまう。

当たり前だが、文章は上から下へと順序良く読んでいくのが大前提であるし、そうしなければならない。そうしなければ意味を全部把握できるはずもないからだ。Twitterの雄弁家曰く、愚か者は文章をちゃんと上から下へと読まずに目についた部分を飛ばし読みするくせに、自分の都合の良い文章を再構成して「理解」してしまう、とかなんとか。こういう話題はそれなりに人口に膾炙していて、要するにTwitter使っているオレたちクレバーで最高〜、あいつらとは違うぜ、みたいな論調なのだが、そもそもSNSというプラットフォーム自体が細切れに文章を裁断して、そのシュレッダーされた文章を集めて文意を理解するゲームなのだから、とやかく人のことは言えないだろう。

脱線した。要するに、自分は落ち着いて腰を据えて一つの文章を上から下へと読めないのである。他の文書にも目を通さなければならないとか、時間が限られているとか、書き手の技量が不足していてロジックではなく行間を読まなければならないとか、いろいろ理由はあるが、全体をチラチラと読んでしまう。チラチラ読んでいるので当然意味をよく分かっていないのだが、チラチラ読んだことでなんとなく分かった気になってしまうのが良くない。あるいは、熟読の不足といってもいい。熟読!この軽薄なネット世界でなんと軽んじられてきたであろう言葉か!熟読が重んじられることはほぼなく、物心ついた頃から速読だとかスピードなんとかみたいな概念が一世を風靡していたし、自分も小学校の頃から文章を飛ばし飛ばしに読んで問題を解こうとするのでしょっちゅう指摘されているのだ。熟読をしなければならない。

熟読するにはどうするべきか?まずはなぜそれができないのかを考える必要がある。文章を読んでいると、焦りが見えてしまうのだ。他の誰もがとっくにこの文章を理解しているし、書かれていることをマスターしているに違いないという被害妄想的な影が心の窓の内側に射してきて、ゆっくり読めない。とくにネット時代になってからというもの、皆わかった振りをしていて、わかったクラブを形成しているのだ。そんな中で自分だけじっくり腰を据えて読むことはとても我慢ならない気持ちになってしまう。

他にも、「この文章は読むべき価値がないに違いない」という無意識の驕りが出てしまう、というのもある。要するに結論は?という気持ちになってしまうのだ。そして結論だけ見届けると、あとは自分の言いたいことだけを言って、主張したいことだけ主張してしまう、というパターンである。やはり急いでしまうのだ。俺は忙しいんだから、時間をとらせるなよ、というわけだ。

子供の頃はいくらでも時間があった。加えて、世の中にあふれている情報の量は、そんなに多くはなかった。携帯電話の説明書を読むなどして暇を潰していたのだ。それが今や情報の海に圧倒されていて、しかもその品質は玉石混淆、あまつさえフェイクニュースだのという話題が出てきて、まず文章を読む前に「これはそもそもウソなのでは?」とか、「この文章で俺をコントロールしようとしているのではないか?」といった不埒な思考がまろび出てきてしまい、結局文章を読めない。誰でも平等に世間に情報を発信できるようになったことで、文章の価値というものが劇的に下がったのだ。情報戦みたいな話題がもてはやされるようになった。そういうのを見ていると、真面目に文章を読んで感動したり怒ったり毀誉褒貶を目にしたりするのはバカらしいと思うようになる。しかしバカらしいと思ったところで蟻地獄に落ちるだけで、今度は自分にとって都合の良いものしか見なくなるだけなのだ。たとえバカらしくても、真面目に文章を読んで笑ったり怒ったりするほうがよほど文明的というもので、文章を読んで振り回される人間を下に見て冷笑したところで、自分が自分の世界に閉じ込もっていることが露呈するだけである。

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