わりと多くの人間には、原風景や基盤となる心象風景みたいなものがあると思う。自分の場合、出身地である佐賀の雄大な(何もないとも言う)田園風景とか、のどかな県民性とか、気候が穏やかであることが、原風景としてすぐに思い浮かぶ。
心が安定している人というのは、こうした原風景を心に飼っていて、たまにうやうやしく取り出しては、誰にも見せずにそっと懐に仕舞っているのではないか。大抵の人々にとって、原風景は自分が育った環境であり、それは同時に安定の象徴でもあるし、世の中がどうなろうとも信頼できる、ねがいと体験と現実との化合物だ。暮らしの基盤となる思想といってもいい。 *1
自分は心が安定している人間がうらやましい。そうなりたいものだ。さいわい、自分の原風景はいささか古風であるけれども暖かく安定している。おれにはおれの生き方がある。それでいいはずだ。
他方で、ある名札がついている人間はこうあるべきだとか、現代人はこうあらねば古くて悪であるとか、とにかく拙速に他人や物事を断じる風潮が跋扈している。昔は時空間的に人々はまばらだったから、こういった要求をはねのけるのも易かったが、まさに空気のように情報が暮らしの空間を埋めてしまい、あらゆる局面で他人の尺度が顔を出す現代では、こうした独り善がりで他人の役に立たない原風景の居場所はないに等しい。より正しく、より利益を生み出す思想に塗り潰されてしまうのだ。
おのれの原風景が社会に従順な姿形をしているならば、誰も文句を言わないし心は安泰だ。しかしそうでもないなら?そういう人間はどこに行けばよいのだろう。現代においては発言しない人間をなきものとする風潮が極まっているし、発言したらしたで袋叩きにされるのが分かりきっているなら、多様性はいつまでも政治用語であり続けるだろう。
*1:もちろん原風景が信頼に足らぬ人々もいるかもしれない。