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京都在住Webエンジニアの日記です

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怒りの土台について / アンガーマネジメント再開発

風呂に入っていると、体が痒くなってきた。自分にはよくあることだが、良くあることだからといって看過できるかというと、全くそんなことはなく、クソである。 風呂の熱気もあって非常にむしゃくしゃしてきた。自分はリラックスしに風呂に入っているのに。なぜ。イライラする。伸びた爪で体を引っ掻くと、赤い筋になって残っていく。

風呂から上がって炭酸水を飲んでいると、ふと、これは怒りがあって体が応答したのか、それとも逆に体が痒いので怒りが湧き出たのか、実際のところはどうなのだろう、と思った。最近読んだなにがしかの本によれば、心と体は相互作用的な存在であって、どちらかが先立つものではなく、完全に一方通行の因果関係ではないらしい。

怒りの過程について考えていると、ふと、自分は怒りを覚える前にその土台のような状態が持続し、それがいずれ怒りとして発露することに気づいた。 安全装置が外れたような、不満を感じ、怒りを正当化しているような状態である。交感神経系が興奮し、攻撃性が増し、心の底が引き潮のように浅くなっていく。

その状態が持続すると、後はなんでもよくて、きっかけを与えれば容易に怒りが沸騰することに気づいた。きっかけは何でもよくて、IMEの変換ミスだとか、隣の家がやかましいとか、子供の騒ぐ声とか、そういう感じである。

運の悪いことに、その状態は正のフィードバック係数を持っている。すなわち、どんどん状態は悪化していくということだ。いずれ心の海に岩礁が現れ、爆発してしまう。それには怒りという名前がつけられている。

おそらくこの土台は、怒りを許している、怒りというものをどこか他人のように突き放して、怒りが湧き出た、私は悪くありません、仕方がないことです、というような釈明のようなセンスを滲ませている。だが実態はそうではなく、怒りも自分の感情であり、それは自分の心にあり、それは意識である程度制御できるものであるから、まず認識を改めなければならないのが、怒りは結果ではなく自ら導いている帰結だということである。

じゃあ、なぜ自分はこう怒りの土台が持続するのかについて考えると、完璧主義が顔を出す。またあんたか。懲りないな。 自分はそんな賢い訳でもないのに、自分の行いを見る目がやたら厳しく鋭敏で、思い通りにいかないとすぐそれを見つけて自分への不満に変換してしまう。 これじゃ年取ってから大変だぞ。怒りを抑えられないジジイになってしまう。それは嫌だ!未来のまとめサイトに晒されてしまう!

話は変わるが家族はやたらと適当で、飛行機の乗り方とか知らないし、調べずに空港に来てしまう。雑すぎだろ。良く生きてこられたなという感じだが、あいにく生きている。良くも悪くもいい加減だとこの手のストレスからは無縁でいられるように思える。その一方で、ソフトウェアエンジニアという生き物はどこかおかしな所に鋭敏である必要もある。これはおかしい、直すべきだ、という発想を脊髄反射で行うように訓練されてしまっていて、却って柔軟な発想を妨げてしまうのは、なんとも撞着した話だ。つまり生来雑な性格で宿題は時効を待ち他人の助けを座して待つような人間だったのが、後天的に細かいことが気になるように学習されたということで、めでたいことにその逆もおそらく可能であろうから、まあ将来の自己鍛錬に期待しておく。

思うに、しょうがないことはしょうがないッ!!!と割り切るというか、諦める事も必要。自分は割り切りが悪くて、いつまでもこうあるべきなのに……と不満を垂れて悪化しがちな気がする。方針転換できないというか、作戦を放棄するのが苦手だ。

また副次的に、安定剤を飲むと寝付きが良くなる理由もわかって、つまり安定剤を飲むと人間性が圧延されて雑になり、雑なので寝てしまう。 そういえば正月は実家に帰省していたが、実家はその主人に適した形状に適応していて、つまり雑で、雑なので自分は心置き無くソファーでゴロゴロしつつ本を読むことができた。結局雑な方が進捗も出るというわけで、完璧主義の完敗。

まあ当面の作戦として、精神が昂り始めるのを検知したら、それを認識の俎上に上げて、どうどうといなしてやる、受容せよ慣れよ、と自分を慰撫する、という感じであろうか。とりあえず、そのようにする。結局アンガーマネジメントというものを自分で開発していて、しばらく前は自分は認知療法みたいなのを結果的に開発していたりして、そういうのが得意技なのかもしれない。

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