Lambdaカクテル

集団への盲従を激しく嫌う

ロゴスはパトスに負ける

インターネットは,意見や,意見ほどはっきりと論理性を明らかにしていない声,もしくはそれを基礎建築として土台に持つアウトプットの集合体であると言うこともできる.

そのひとつずつに論理性,つまりロゴスが光をもたらしていて,その一方で感情的なもの,情緒的なもの,運動体,言い切ってしまう断言(甘美な芳香をただよわせている)といったパトスが息づいている. その比率はまちまちで物によるが,娯楽的な物ではことさらロゴスが重用されるということはなくて,パトスに身をゆだねていることが多い印象だ.多くのコンテンツは,純粋な娯楽を目的として存在している.

しかし政治や技術といったある種の事柄は,ロゴスを必要としている.感情は一過性であり,とりかえしがつかず,踏み固めることができない.

俺が普段触れるインターネットで大勢を占めているのは,パトス的なものだ.ロゴスよりもパトスのほうがより多く稼ぎ,人を惹き付けるからだ. だからときどき, 俺はパトスにロゴスの役割を求めてしまいそうになる.だがそれは明確に筋が悪い.パトスは言語の外にあるものが言語の形をまとっているにすぎない. パトスをこね上げて作った論理は,普遍性がないゆえに,パトスでしかない.しかしながら人間は動物なので,情緒,利害,帰属意識,孤独,バイアスといった野生の烙印が,首の後ろに刻み込まれている. だから俺は,誰かの主張がパトスの力を借りているとき,靡いてしまいそうになる.靡いてもなお,自分はロゴスによって靡いたのだと錯覚してしまう. その錯覚は,自分の家に見知らぬ誰かがいるようなぬるっとした恐怖を俺に感じさせる.

自明なことだが,論理的に明確に思考するために必要なのは,ロゴスである.その言説に情緒的な味付けをしたければ,パトスでもエートスでも振り掛けるがいい. それでも普遍性を持つのはロゴスであり,あくまでパトスはその従者,感情の問題が介入すべきときに口を開くことのみを許された慎み深い詩人でなくては.