Lambdaカクテル

京都在住Webエンジニアの日記です

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感情の共有をしてはいけない

トラブルをでっちあげて人間に接近し,その人を洗脳してしまうという恐怖ニュースがあって,あなたの判断基準は頼りにならないのだと繰り返し教えて,自分を頼らせていくみたいな話で,これが1対1だとヤバい人だけれど,多対一だったらカルト宗教になる. しかしよく考えるとSNSみたいなのも規模が大きなカルト宗教みたいなもので,あいつがオレたちの事悪く言ってるぞ,許せん,みたいな事を延々と転がしていたりする.定期的に同じ話題で怒る人が出現したりする.

みんな「つなが」っていて,いつでもつながっている.いつもそうなので,ネットのどこかで起こった喧嘩みたいなのを自分の事のように感じてしまうという症状が表れる.自分と他人との境界線が曖昧になっていて,集団思考をしているというか,まさにカルト的な思考過程を踏むようになっていると思う. ホモソーシャル的というか,みんなで一緒の情緒を共有して一体感を得ましょう,みたいな感じ.知識の共有によってインターネットは知の高速道路になりえたけれど,その上に構築されたSNSはだいたい感情を共有するツールになっている.

感情を共有するとどうなるかというと,あまねくカルト化すると思う.インターネットで感情を共有するのはなんとなく良いことみたいな扱いになっていて黙認されているけれど,しかし感情は簡単に伝播するし,ヒトの原始的な機能,生存の危機を感じるなんらかの機構を刺激するので,あっさり動物の群れになってしまう. たぶん遠くない未来のネチケット(死語)には,ネットに自分の感情を投稿するのは避けましょう,というのが出現すると思う.

SNSで馴れ合いをするのは面白くて,自分もTwitterをやり始めた頃は「にゃーん」とか「なるほど四時じゃねーの」とか言っていたけれど,あの時感じた不思議な心地良さは,まさに自我が他者と溶け合っているときの感覚であって,むしろ危機を覚えるべき感覚だと思う. 一体感みたいなのは,実は無いほうが良いかもしれない.

自我が他者と溶け合うとどうなるかというと,自分で考えられなくなる.むしろ群れで暮らすドーブツとしてのヒトの原始的な状態はこの状態で,そこからヒトが人になる過程で人間は自我を他者と区別するという仕組みを獲得したのだろうけれど,それを手放すことになる. 現代社会は個人の自由に重きを置いていて,他人の支配下にはならないに越したことはないという価値観を持っているけれど,自分で考えられないということは他の誰かに依存する,より強く言えば振り回されるということを示していて,個人の自由は失われてしまう.

自我が他者と溶け合うと,論理ではなく感情で他人と同調することになる.理屈では通らないけれどシンパシーを覚える人間に加勢するという事が起こる.感情で加勢していると社会は崩壊するので,感情よりも論理を取るほうが良く,やはり自我と他者を溶け合わせてはいけないと思う. また一般論として,大人は感情的に自立しているべきだという規範がある.

そこまで考えなくても,他人に支配されるのは嫌なはずで,自分で考えられるほうがいい.

自分が書く文章が,未だ見ぬ誰かへのラブコールではなく,既に知っている人へのラブコールに転落してしまうと,知的な営みは確保できなくなってきそうな気がするけれど,これは直感に基いたものなので,正直よく分からない.

気になることだけ見ていればよいという時代は終わっていて,気になることはどんどんやってきて全部気にしていると狂ってしまうので,気になることをさらに選別しなければならない時代.

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