Lambdaカクテル

京都在住Webエンジニアの日記です

Invite link for Scalaわいわいランド

文庫の良さ

人それぞれ、と言う本を読んだ。岩波文庫の本で、古代ギリシャの人が人間観察をすると言う本で、薄いのですぐ読める。昔の人も今の人もやることは同じで、「肩にゴミがついたときに率先して取ってあげておべっかを使う奴がいる」みたいな話をしていて、人間は変わっていない。

岩波に限らず、文庫には独特の良さがあって、ほとんど読者の立場とは関係ない物語が展開される。もしこれが近代日本と東アジア、みたいな話だと社会的な側面が発生してしまう。しかし文庫だと古代ギリシャとか孔子とかイスラーム世界とかで、基本的に完全な他者の物語として消費することができる。それが自分には合っているのかもしれない。

最近は、人は、物語を読んだとき、自分や自分が所属する共同体との関係性に基づいて物語を解釈しがちなのではなかろうか。例えば、鬼滅を見たら大正時代の話を始めて一連の社会批判をする、みたいなチャートが形成されてしまう、というか。言い換えると、他人の物語を、自分の物語に還元してしまう。こうして文字に起こすと結構傲慢な色彩を帯びている。他人に感情移入し、他人のものがたりを泳ぐという醍醐味の代わりに、自分の物語に読み替え、自分語りの道具として物語を使ってしまう。それはSNSの発展によって定められてしまった一つの到達点なのかもしれないが、なんかそうじゃないよなと思いつつ、しかし目立つのはそういった物語の道具化のほう、というか。物語の優れた点は、他人になれる事だ。でも最近は、誰もが他人になるのを恐れているような気がする。他人を理解することに怯えている。他人を理解すると他人に乗っ取られる、という不安が根深くなっていると思う。

何かをどっぷり信じている人は、傍目に見て怖いものだが、自分がそうならないとは限らないと考えられるだけの明晰さを持った人は、実際に壊れてしまった人を目にしたとき、同じように自分が壊れてしまうさまを想像してしまい、そうなるまいと、自分が取り込む情報に対して過敏になってしまうということがあるかもしれない。狂気を狂気として片付けられる時代ならまだしも、現代のSNSを徘徊する狂気の群れは片付けられないから、狂気と正気との境目はますます曖昧になっている。

自分も似たような感じで、かなり長いこと本を読むことができなかったのだが、本は「おれに意図をもってアプローチしてきている」のではなく「他の人にも見てもらおう」くらいの感覚で緩やかに世に放たれているのだ、と考える事にして、なんとか読めている。世の中には、不誠実な本がたくさんあって、そういうのが書店に積まれているのを見て、自分は本を消化する内臓がダメになってしまった。内容ではなくムーブメントありきの本はこの世から消えてほしい、と言ったら言い過ぎなのだが、世の中は右でも左でもなく内容からムーブメントへと偏ってきていて、そういうのは人を壊してしまう。ムーブメントは人を惹きつけるのだが、ムーブメント自体が何かの得になるかというと何にもならない、むしろ軽薄に物を壊してしまう。しかし恐ろしいことに、ムーブメントを無視していてもムーブメント自体が世の中を破壊することは十分あると思う。もしかしたら本当に無視していいかもしれない。それはまだわかってないし決断もできていない。

だから時事関係の本はあまり読まないようにしている。でも自分はミリタリーも好きなので、ミリタリー関係の記事にしょっぱいコメントがたくさんついているのを見ては、しょっぱくなってしまい、平安時代だったらおもわず和歌を詠んでしまうと思う。

★記事をRTしてもらえると喜びます
Webアプリケーション開発関連の記事を投稿しています.読者になってみませんか?