Lambdaカクテル

京都在住Webエンジニアの日記です

10年続いた不眠を乗り越えてわかったこと

序文

中学生のころから、かれこれ不眠に10年近く悩まされてきた。夜眠れないし、朝起きられなかった。言葉にしてみれば20文字にも満たない、ただそれだけのことが、いくばく人生に打撃を与え、心を打ち砕こうとしたことだろう。 いつしか、それがどん底にぶつかりそうになり、もがき苦しんだ果てに、かなり改善しつつある。夜眠れるし、朝起きられる。誰もが当然視し、取るに足らない扱いをするこのことが、いかに心の支えになり、人生の展望に自信をもたらすことか。

この記事は、過去の自分に対するアドバイスであり、未来の自分への礎とするつもりで書いた。もしかすると、この記事が同じように不眠に悩んでいる人の助けになるかもしれない。だからある程度構成をしっかりして記事にすることにした。もし参考になったら幸いである。

不眠には身体性のものと精神性のものとがある。身体性の場合は身体上の問題によって睡眠に不都合が生じるものだ。 精神性のものは、強いストレスや認知の問題が睡眠に影響を与えてしまうものだ。自分の場合は精神性だったようだ。だからこの記事では身体的な話はあまり登場しない。全く登場しないといってもいいだろう。 だからあらかじめ断っておく。この記事は、自分がいかに認知の歪み、あるいは世界の歪みと戦ったかの戦記でもある。

つまるところ、自分に限って言えば、この記事は世界と自分との関係を再定義するものなのだ。では世界を初めよう。

他人の人生を背負ってはいけない

他人に慈悲をかけてはいけない。他人の人生は他人のものだ。勝手に盗んだり奪ってはいけない。慈悲をかけるとしても、それが傲慢な思い上がりであることは常に心に留めておくこと。

不幸はありふれている / 死ぬのは弱いから

こんなことを書くと自分が恐れ知らずのネオリベ的な自己責任主義者であるかのように映るかもしれないが、実態はそうではない。どちらかといえば他人に過干渉すぎるかもしれないくらい、他人のことを心配してしまう。じゃあなんでこんなことを書くかというと、インターネットとの兼ね合いである。

ネットは莫大な数の人間とのつながりを可能にしてきた。その過程で、他人の不幸が目に付くようになっていく。他人が苦しんでいる様子を見せ付けられることになる。通常の感性、平均よりもちょっと他人に優しすぎる人は、ここで壊れてしまう。また同様に、ちょっと他人に厳しい人も壊れてしまう。他人のアラが目に付くようになっていくからだ。しかもこれまでの比ではない数でだ。

だから、ネットを通すときに限って、死ぬのは弱いからだ、という冷酷な基準を採用する。現実に出会った困っている人を助けるほうがよほど為になるからだ。ネットで他人の身に降りかかる不幸について国や政治をあれこれ批評することが誰を救うのだろうか?何を与えることになるのか?ということだ。

死ぬのは弱いから、自分は強いから死なない、みんなザコだが俺はそうじゃない、というアホすぎるロジックでいると、かなり元気になるので試してほしい。

自分の人生は自分で責任を持つ

他人を大人扱いしよう。我々はすぐに他人についてあれこれ(ネットで)批評することが癖のようになってしまっているが、批評とか意見するというのは他人に指図する本来恐ろしい行為だ。他人にどうこう言う権利など本来無いのだ。大人には自分の人生をどうにかする権利と義務がある。他人についてあれこれ言う前に、自分の人生を大切にすることだ。救ってあげなきゃ、なんとかしてあげなきゃ、というのは傲慢だ。苦しいなら苦しい人間が戦うべきだ。

もちろんどの程度、どこまで手を貸すか、というグラデーションは必要で、身近な人が困っていたら手を貸すべきだろう。しかしながらネットは究極の他人なのだ。

貧困

だが貧困だけは、社会的に協力して解消していかなければならないと自分は感じている。貧困はそれ自体貧困を加速させるし、単独での脱出は困難極まるからである。 格差ではなく貧困である。格差は相対的、貧困は絶対的な基準によるものだ。一定水準未満の所得で暮らすといったことがあってはならないと考えている。それ以外はだいたいなんとかなると考えている。

リベラル性の矛盾と限界を感じる

ここは小難しい話になる。といっても前節と同じくネットとのかかわりの話なので、あまり気負わずに読めるはずだ。

政治的な自由主義を標榜している

自分の政治的な立場は、かんたんに言うと穏健なリベラリズム的な立ち位置、すなわち個人の自由をなるべく最大限尊重すべし、とする立場にある。Webソフトウェア業界では比較的多い立場であるように思える。

そうでない様相を見せる他人に干渉することになる

しかしながら、ネットには様々な人がいるので、政治的な人間は永遠に戦いを運命付けられる。自由でいいよ、という立場を保守するために、そう考えない人間を論難したり意思表明をしたりすることになる。

結果的に、干渉を好まない人間が他人に干渉するという矛盾する立場に追いやられる。ネットを介さなければこういうことにはなりづらい。ネット、とりわけツイッターではすべての論客が1つのリングに放り込まれる構造的な問題がある。相容れない人間が強制的に相対することになる。かつてネット掲示板などにあった「棲み分け」という概念は、遠い昔話になりつつある。

つぶやきの限界

そもそもツイッター自体が炎上機関として作用している。TLを共有するという性質上、どうしても他人に干渉することになる。その点がツイッターの限界である。なにを主張しようが、それが勝手に他人の目につく構造になっているので、干渉になってしまう。この点はもうどうしようもないと自分は感じて、諦めることにした。ツイッターで政治をやるな。

尋ねられれば

他人が自分とは異なる政治的態度を誇示していれば、つい政治的な態度を表出させたくなるだろうが、そこをぐっと堪える必要がある。せいぜい尋ねられたら答えるくらいの態度でいることだ。特にそうした感情を惹起しやすいネットでは。

ウチとソト

これは見苦しい形式ばった言い訳だが、自分は多様性を好んでいる。その前提で読んでほしい。

ツイッターではポリコレ的なのが幅を利かせている。誰かが突然変異した赤狩りだと形容していたがそういう印象だ。典型的な暴走した正義だ。だからポリコレ的なの、と書いている。

だがあまりに幅を利かせていて、しかも自分はツイッターで育ってきたので、自らの内面まで「正しいこと」に矯正しようとするようになってしまい、気がおかしくなるところだった。というか実際なったのだ。

より抽象的な話に置き換えると、正しさはあくまで外向きの建前として保持すればよいのであって、内面では自分なりの落とし所を見付けていけばよいのである。

論理性にこだわらないこと

ソフトウェアエンジニアなので論理性にある程度こだわるきらいがあるし、世の中もそうなっていると思い込んでいるフシがあるのだが、実は世の中そんなに論理的ではない。慣習や伝統、思い込み、怠惰、因習、慣性によっているところが非常に多い。世の中は適当にできているし、そもそも誰かが作ったわけではない。みんなの怠惰な暮らしの中で、それでも成り立っているものである。なんだ世の中こんなものか、という気付きを得ることだ。

人はたくさんいる!

ネットでは人の多さというのが見えなくなってしまう。喋らない人間は存在しないように見える。だから存在しない側になるのを恐れて、なんか言いたくなってくる。そうして荒れがちな話題に食い付くことになる。

だがそもそも、なんにでも意見を持たなくて良いのである。日本には人間がたくさん居る。自分がその分野によほど精通しているのでなければ、自分よりも詳しい他人がいると見てよい。だから揉め事に食い付くにはよしたほうが良い。一々食い付いていたらきりがない。

よく見てみるといい。はやり勇んで食い付く輩はだいたいそもそも日本語も論理も怪しいウンコタレなことが多くないか。脊髄反射で書き込んでいそうなコメント(もはやコメントに比肩するほどのものではないのだが)の多さに気付くがいい。そういう人間に一々気を病む必要はないし、相手をする必要もない。日本には人間がたくさん居るが、まるで話が通じない相手もたくさん居る。

いつも揉めてる界隈に近付かないこと

どことは言わないが、悲しいことに、いつも揉めている界隈がある。いつも外側の誰かを敵視して罵っているか、内輪で学級会をやっている。その界隈の平均レベルが低いということはないはずだが、荒くれが数人居るだけでその界隈の印象が悪くなっていく。そういう界隈には近寄らないことだ。

のびのびメンタリティを持とう

のびのび。不眠が落ち着いた今となっては一番好きな言葉だ。のびのび生きること。それが最も幸せな生き方になると自分は考える。

しかし不安になるのもよくあることだろう。将来どうなるのか。今日は正しい一日だったのだろうか。自分はどうすればいいのか。

死ぬまでの遊戯である

こう考えてみてはどうか。人生は死ぬまでの遊戯だ。人生の質や量にかかわらず、いつしか死が訪れるのであって、明日のことだけ考えていればそれでよい。過ぎたことはどうにもならない。

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すくなくとも私的な領域では、正しさから解放されよう。ソフトウェアにはベストプラクティスや正解があるが、人生には無い。自分は人生を「生き拓か」なければならない。それは主体的な行為である。エンジョイアンドエキサイティングしていこう。そこにネット上でとやかく言う他人や「正しさ」は必要ない。

満足することを知る

安心して眠れるようになったのは、今日に、自分のありように満足できるようになったのも大きい。

ソフトウェアエンジニアの間には、もっと上を上を目指さなければという風潮があることに異論の余地はない。 一般的な定式として、勉強し続けなければソフトウェアエンジニアとしてうまくやっていくことはできないだろう。 だがその風潮が行きすぎて、生きづらさ、息苦しさを助長しているのではないかと考えている。ほんとうは、みんな同じ、楽したい人間だ。

身も蓋もないことだが、勉強し続けましょう、研鑽していきましょう、ビジネスのことを考えましょう、プレゼンスを上げていきましょう、成長していきましょう、というのは、建前である。現実にはそううまくはいかない。だがわれわれはビジネス的な都合で人間のしょうもなさを意図的に無視し、あたかもそれが存在してはいけないかのように振る舞っている。エンジニアは実力主義という名目で年功序列といった庇護を捨て去った結果、売り物になったからだ。

人間が商品になる原理の行き着く果て

自分株式会社なんていう言葉がある。自分を1つの会社だと見做して、できることを増やしたりして「経営」していきましょうという思想だ。つまるところ、人間を商品にするという昔ながらの資本主義に砂糖をまぶしただけのものだ。もちろん日本は資本主義国であるし、共産化してやろうなどと考えているわけではない。生き抜いて出世してより金が欲しければ、欲しがられる人材にならなければならない。ただ、そういった思想に諸手を挙げて賛同はしかねる、という気持ちなのだ。その理由が前掲の息苦しさや人間性の否定の横行である。誰もがイケイケのプレイヤーごっこをしているが、われわれは資本家ではない。こんなものはまやかしだ。就活生や労働者が植民地よろしく経営者の言葉を覚えさせられ、他の就活生や労働者をくさしている。こういう風景に嫌気がさしている。

大幅に話がずれたが、何が言いたいかというと、人間は元来自由ということだ。商品ではない。そのことを忘れてはいけない。だから自分がエンジニアとしてどうだということに、あまり気を揉む必要はない。これは資本主義社会で生き抜くためのテクニック、道具にすぎないのだ。だから自分はエンジニアとしてのキャリアのそばに、地に足の着いた、息衝く人間としての生生しさも寄り添わせていきたいと考えている。透明に脱色された、夢ばかり語る滑ったエンジニアにはなりたくないと思っている。

自分は自分の人生を「ソフトウェアエンジニアとしての価値」から少し遠ざけて、肯定することができた。それはちょっと前に書いた「のびのび生きること」にもつながるものだ。生の軸足、アイデンティティの切り札を増やすことは、より人生を生きやすくする。そうすることで、より真摯に人生に向き合えるようになるのだ。

結語

ぐだぐだと書いていたら5000文字を越えてしまった。ぼんやりと感じていた生き辛さというか違和感を書き下して、生きやすいように再解釈するということをやってきたつもりだ。結果として自分はそこそこ生きやすくなり、不眠が大幅に改善された。だがここに至るまではかなり過酷な道程だった。感情をどんどんscrapboxに写し取って、丁寧に考察する、といったことを延々とやらなければならなかった。その結果体力を消耗したり、さらに眠れなくなってしまうこともしばしばであった。とはいえ、こうして記事の形で、また実生活でも不眠の改善という形で実りを結んだことだけが救いだ。

ただ暮らすだけで幸せを感じるようになった

不眠がかなり抑えられるようになってから、生活は激変した。とはいえ派手なものはない。ただ皆と同じような時間に出社したり、寝たり、漠然とした共同体感覚に包まれるようになったり、そういう地味な変化があっただけだ。朝パンを買えるだとか、昼も元気だとか、夜眠くなるだとかの仄かな幸せが手に入った。だがかつての日々を知っているから、とても幸せだ。暮らしているだけなのに。

と同時に、幸せというのはこうも漠然と、つかみどころのない、論理性のかけらもないものなのだという人間のむつかしさ、儚さにも気付いた。

記事が誰かの役に立ってくれたなら嬉しい。ここで書きもらしたこともあるだろうから、これからも随時書いていきたい。