Lambdaカクテル

京都在住Webエンジニアの日記です

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チルアウトするためにブログを書くこと/貧者の娯楽としての怒り/率直さを身に付けたい

長いこと体調不良人間をやっているとノウハウも身に付いてくるというもので,だいたいこういうことをすると体調がマシになる,こういうことをすると悪化する,といったことが分かるようになってきた. 例えばゲームで大勝すると気分良く寝ることができて調子が良くなるとか,逆にうまく勝てないとストレスゲージが上がって調子が悪くなるとか,そういうことである. 言うなれば,後ろめたくない一日を送っていれば達成感を得られて,あっさり夜の帳に引導を渡してしまうことができる.なんかの漫画にもそういうことが書いてあった気がする.自尊心を保ち続けるには,後ろめたくないことをやるしかないのだ,ということを.

ところでそういうノウハウの一つに,ゲームに負けたりストレスを喰らったりでヒートアップした精神をチルするために,なにがしかのことをやる,というのがある. なにがしかというと適当だが,要するにあまり興奮しない趣味的活動をやるというわけ.FPSだと興奮してしまうのでダメ,というかゲーム全般は興奮してしまうのであまりよろしくない気がする. 今やっているようにのらりくらりとした筆致で日記をブログに書くとか,お茶(もちろんノンカフェインである必要がある)をだらだら飲むとか. ブログを書いていると自分がふだん考えていることがざっくり掃き出されるので,自分でも気付いていないような生活の機微を発見することができて,今日一日を過ごした時間軸が本流だとすれば,その支流をふりかえってその一日をより味わい深いものにすることができるように思う.それにブログは自分の調子で書くことを決められるし,勝敗がないし,好きなだけ書いてやめることもできるし,そのまま文章としてわかりやすい形で達成感を得ることができる.俺はそこまでブログに気負わないことにしたので,こういうだらついたことをたくさん書くことで精神を穏当に調和させていきたい.

だいたい自分は他人よりもストレスを溜め込みやすい傾向にあるようで,その一つに自分は気が小さいというのがある.人生を振り返ると確かにこれは小心者だと思い当たる節はたくさんあるのだけれど,あくまでそれらは個別のエピソードとしてばらばらに記憶されていたにすぎず,自分は気が小さいのだという自覚へは至らずにいたのだが,つい昨日ベッドの中でゴロゴロしていると,ふと,自分がストレスを感じたりいろいろの不調を訴えたりするのは,気が小さいことが遠因になっているのではないかと「気付い」た.するとどうだろう,それまで意味を持たなかった星々が,ある瞬間から星座の形をまとって強く人の心に刻まれ,もはやその形以外に星を語るすべがなくなってしまうように,妙にしっくりとした自覚をもって,ようやく自分がうまく操縦可能になるのではないかという感覚が湧き出てくるのだった.

さてストレスを溜め込む要因にはいくつもあるけれど,自分がよく足を取られて息を切らしてしまうのが社会的怒りである. インターネットには怒りがありふれていて,特にSNSでは半ばコミュニケーションの通貨として常にどこかからあふれ出しながらどこかに流れ込んでいる. そういった怒りに翻弄されつつも,自分の人生を生きていないような違和感が無視できない程大きくなってきたころに,次のようなツイートに(皮肉にもSNSで)遭遇する.

ここで昔のTwitterの話はどうでもよくて,俺が首肯せざるをえなかったのは「貧しい者に許される娯楽は怒りだけ」という箇所であった.おそらくこのツイートの前提となる別のツイートがあるのだろうが,俺は見付けられなかった.「貧者の娯楽」として「怒り」という感情をみつめると,これまで見えてこなかったような様々なつらさが整理されたような気がして,少し世界が透明に近付いたような気持ちになった. そうか,これは娯楽なんだ.という視点が得られると,インターネットで遭遇する怒りの嵐の中でも,なんとか舵を切って目的地に行けそうなふしぎな心強さが生まれる. つくづく怒りという感情は御しがたいものだなと思う.全く怒らなければ,そのうち辛酸を舐めることになるだろう.しかしあらゆる不正や悪に怒っていても(その不正や悪すら,怒るためのお膳立てであり,怒るために怒っていることが少なくないのだが),それは自分の人生にはならない.人には共感する力があり,他人のために力を尽そうとしたり,正義のために行動することができる.だがだからこそ怒りを煽る戦術はあらゆる歴史の中で為政者や叛逆者らによって愛用されてきたのだろう. ではどう怒りを見分け,適切にあやしていけばよいのだろうか?正義を捨てればよいのだろうか.自分との社会的距離関係で共感の度合いをコントロールするべきなのか. おそらくこれがその人の主義,イデオロギーと呼ばれているものの正体なのかもしれない.その基準を確立した人間は,ぶれることが少ない人間になるだろう.

怒りには人間をモチベートして動かす力があるのだが,ちなみに怒りに近い感情として攻撃的な感情というものがある.勝ってやる,倒してやるという,机から乗り出さんとする感情のことである. 俺はFPSをやっているが,だいたいうまく勝てるのは攻撃感情が優位にあるときである.うお~ブッ殺してやるぞという状態のときは,他のことを考える必要がなく,深い集中力を発揮するようだ. エイムのトレーニングのためにAim Heroというソフトで練習するときも,思考が散漫だとさっぱりスコアが出ないのだが,攻撃的な感情を高めて「殺す!殺す!」という殺意マックスな感じでやると,狙って撃つ以外のことを考えなくなり,すごく当たるようになる.おそらくこれはアスリートがやっているトレーニングにも近いものがあると思う.絶対勝つぞ!と言っているのは,たんに形式的に言っているだけではなさそうだ. こういうふうに精神状態がパフォーマンスに影響を及ぼす体験をすると,学生時代に嫌いだった,あの運動部のギラついた感傷主義的なところを,精神論として唾棄するわけにはいかなくなる. 俺が人間的深みを手にしたとして,歓迎すべきことだろう.

人間的深みとしてまだ成熟していないと感じるのが,素直に発言していくことである.俺は言わずもがな不眠症で,夜はさっぱり眠りにつくことができず,そのため朝は起きることができないという二重苦の状態にある. なので会社で発言するときに若干のうしろめたさ,萎縮感情を抱えずにはおれない.もちろん会社としても組織論としても,朝来られないのは発言や意見の価値とは関係のない話で,どんどん発言すべしということになるのだが, もちろんそれはわかっていても,萎縮してしまうものなのである.これが遅刻の置かれた社会的スティグマというのだろうか.またここで,自分が小心者であるという冒頭の話も相俟って,話を難しくしてしまう. 自分のマインドセットをうまいこと良い方向に更新していき,悪循環を断つ必要があるだろう.

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