体験の濃密さと、語る事についての随筆
枕上、厠上、馬上なんて言うように、何かを閃くことが多いのはベッドの中だったりする。 いままではTwitterに思いついた順に書いていたけれどもう少しフィルタしないといけない気がしていた。
ある友人は想いを貯めて書き出すのがすごく得意だ。何かがあると、じっくりとその感情を咀嚼し、解釈してから文字に起こし、一枚のエントリにレンダリングする。自分はその文章に毎回引き込まれてしまうし、心がまさにその文章の世界の中にいるような気持ちにさえなる。そういうことができるのは凄いって気持ちになるし、そういう人のことが好きだ。でもふと顔を見上げると、自分もそうだったら良いのにとでも言いたげな、ふてくされた顔になっていることもままある。
体験した出来事に対して、自分はどう向き合っているのだろうか。 何かあるとさっと呟いて終わってしまう。喉元を過ぎたように忘れてしまう。呟けない時はメモしておくのだけれど、後になって見返してみても、それを書くモチベーションは失われていたりするものだ。 でも記憶の中だけにある素敵な香りを忘れられないし、苦い後味やえぐみだけが喉に引っかかって取れない。そういうことが多い。なんでなのか。
普段から自分は何について語っているのだろう。そもそも語るというのはなんなのか。
一番プリミティブな形の「語り」は、自分について語ることだ。その次に自分が経験したことについて、心の動きを語るものだ。そういった体験の濃密さの同心円の中に立った時、会ったことのない他者や、ある種の真理について語る、ということは、体験の濃密さからは最も離れた場所にいる。そしてそれは、自分が最も手を出しやすい場所でもある、ということに薄々気づいて、はっとさせられる。
でも自分だけではないと思う。自分についてのんべんだらりと語れるほどの人の濃さを湛えた人間はそうそういないのであって、大抵の人間は他人について語ろうとする。なんなら、日々流れてくるニュースや、他人の意見の洪水、バズや炎上といった社会的エフェクトが、高高度の空に降り注ぐ放射線のように存在していて、現代を生きている以上その影響からは逃れられないと思う。誰かと会えば、インターネットで起きた他人の話を話す。手頃で安価な正義を語る。自分を丁寧に愛撫して言葉のほつれをほぐしてやるよりも、誰かがかってに結論まで誂えてくれた成型肉のような怒りのほうが美味しい。好奇心旺盛な人ほど逆らえないと思う。承認のファーストフードにあふれていて、丁寧な自炊ができる人間は減ってきている。実際内省と外向との関係は自炊と外食との関係とに似ていると思う。
俺は言いたいことだけ言い訳がましく世間にぶつけて、世の中を変えたつもりになっている。本当に自分が好きなことを語りたい時、世の中には背を向けなければならない。自炊しなければ、永遠に誰かが作った料理を食べる羽目になる。いざという時に備えて自分で料理を作れたほうが良いのと同様に、自分で自分と向き合った言葉を綴れるようになっているほうが良いと思っている。そのいざという時が何を指すのかは、まだよくわからないけれど、インターネットは画一的な思想が麻疹のように流行ったりするものなので、他人を傷つけたくないから、俺は自分で感じたことを自分の言葉で、体験を重んじながら書いていきたい。
Web日記という言葉はもはや死語になりつつあるのかもしれないが、自分が一番文章を素直に書ける時、いや自分が一番自分の文章に対して素直になれる時は、自分の日記という体でものを綴っている時なのだ。 ブログを書くときに、誰を意識しているのか、というのを意識してみても良いなと思った。 ツイッターなんかをやった後や、大きなカンファレンスに行った後にものを書くと、他人に書いているという意識が肥大してしまって、大言壮語な、しかも自分との関わり合いが希薄な、化学調味料の味みたいな文章になってしまうことが多い。思うに、自分は社会的ロールといったものを脱ぎ捨てて、「いまここ」を書き残していくべきなのだ。
余談
とはいえ、SNSは御しづらい。拡散やバズといった形態で、自我というものが潮の干満のように拡大したり縮小したりするような環境では、自分はどの大きさの自我の発言をしたら良いのか、わからなくなってしまう。有名サッカー選手が職場の愚痴とか言っては問題になるし、無名の普通の人が社会を断じて斬ってみても、どうにもならないものだ。徐々に影響力をつけていき、自分も成長していく、といったコースがつくづく取れない世の中になったなと思う。常に世間に気を使ったポリコレ重点な発言をするか、完全に世間を無視して好き放題な発言をするのか、くらいしか選べないのではないか。様々な社会的ロールや社会的関係の人々がいっしょくたにWindymeltというアカウントと紐付いていて、よほど器用に使い分けないとうまくいかない。