心の重荷が軽くなるようなエピソードがあったのでメモしておく。
どうにも自分は他者との距離の取り方が苦手であって、インターネットがもたらす情報の波に耐えられずにウンウン呻いているような口である。
社会は動かしがたく、他者である
さて、主観的にどうでもいいニュースというのがある。 世の中いろいろなニュースが飛び交うようになり、その頻度は日に日に増している。誰かの些細な言い間違いから天下の法の改定、そして己が社会の歯車であることを忘れさせてくれるような猫の動画に至るまで、なんでも流れてくる。だがそれらのうちほとんどはどうでも良いのである。
聞け。社会は動かしがたいのである。だからこそ逆説的ながらも、動かしうることが強調されるのだ。誰もが口を揃えてこのままでは大変だとか、常識だとか、伝単を播くように説いて回るのだが、残念ながら社会は動かしがたい。一億余人の精神の慣性力は絶大で、安く見積って一人50キロとしても50億キロの魂が山のようにうず高くなって、日本列島に腰掛けている。若者は、いやほとんどの人々はその眺めを未だ知らない。だからこそ社会を変えようとする無謀を軽業的に行おうとし、志ついに折れるのだ。
だからある意味、社会的な事柄に対する熱中は無謀と思うに至った。 社会的な事柄に対する興味関心が増えれば増えるほど、己が社会に対して差し出すことのできるリソースは減っていくようだ。
思想と価値観の渦
ところで「される側」へと視点を変える。他人の考えを軽業的に変えようとする人間がいる。むしろ出会わない日を探す方が難しいのではないか? こういう人は自分の考えを説いて回るのにご執心だ。SNSでは簡単にそれができる。別に様々な考え方を見るのは歓迎だ。自分の考えをアップデートするのはやぶさかではない。だが問題は別のところにある。 すなわち、どの程度真に受けられるかということを制御しづらいのだ。
ふだん身の回りの人間からもたらされる情報はある程度統制がかかっているのがふつうだ。過激な言葉は影を潜め、攻撃的な論調は避けられる。意見の相違の振れ幅も一定程度に収まる。自分が嫌われては困るので、人間関係がブレーキとなって互いに不快にならないようにする配慮が生まれるためだ。
だがSNSではそういうわけにはいかない。いくらでも過激な文の羅列を見つける事ができるし、TLへの露出競争が過熱し、文体は攻撃的なものが普通になりつつある。より多くの人間にリーチするために、意見の陣営化が進む。金銭ではなくヒロイックな承認欲求がモチベーションであれば中立的になるインセンティブは働かない*1。
だからSNSにおける言葉の応酬を真面目に見ていると、疲弊だけが残る。
他人を無視する権利
思い出した。忘れていたのだ。他人を無視しても良いという事を。Twitterの初期からずっとSNSをやってきた自分は、TLを一つの家族とみなすメンタルモデルを構築しきっていた。均質で、ITリテラシーの高い、どちらかといえばやや右傾的な、社会に対してどこか斜に構えた人の集団だったTwitterは、Instagramが「オタクが四角いフィギュアの写真をアップするツール」でなくなり、スマホがオタクのおもちゃではなくなった時、社会になっていた。
それに脳が追従できていなかったのだ*2。
これまでのインターネットにあった社会秩序が崩れ去り、突然穴が開いたそこから現実の社会がやってきて、全てを飲み込んでしまう。 これまでのホモソーシャルな世界には「無視をする」という概念がない。均質だからその必要がないのだ。 世界が崩れてもなお、「他人を無視する」という概念を学ぶことがなかった自分は、なんでも気にかけて、背追い込んでいく大人になっていく。
そして今になって、「ああ、他人って無視しても良いのか」という事を発見したのだ。それまで自分は常に脅かされていた。 攻撃的な意見、氾濫する価値観の押し付け、相容れない他者がそばに居る感覚。家の中に見知らぬ他人が座り込んでいる。 これらを排除せねばならなかった。言葉で、思想で、忘れようとする事で。だがそれはそもそも必要なかったのだ。
おわり
悩むことが減った。これは「正しい」のか?という自己検閲を施さなくてもいいのだ。もう論理武装しなくてもいいのだ。俺の部屋が本当に俺の部屋になる。幻聴が聞こえない。