Lambdaカクテル

京都在住Webエンジニアの日記です

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反-単一の社会そしてオタクラッピング電車

自分が求めている世の中のありようをうまく表現する言葉が見付からないなあと思っていたが、風呂に入っているとき、「反-単一の社会」という言葉が脳裏をよぎったので、それを忘れないように急いで風呂を上がってきた。

自分は多様性という言葉がそれなりに好きだ。それなりにというのは、その目指すコンセプトは好きだけれど、それを推し進めることで最終的に同じ方向性を向かせている、みたいな言葉の色彩がまだ腑に落ちていないから。

だからあえて、反-単一の社会という、「○○でない」という否定の話法で表現してみせた。

社会は一つじゃなくて、同じ日本の中の様々なところに様々な社会域とでも呼ぶべきものがあり、それは一部重複していたり、階層構造を成していたりするが、それ自体はある程度自立して存在している。似たような価値観を持つ人間が、自然と集まって集団を成し、社会を作っている。それは制定されるものではなく、自然発生する。ウェブエンジニアの社会があり、競技プログラマの社会があり、若者という漠然とした社会があり、絵師の社会があり、女性の社会がある。自分はこの社会に帰属していると漠然と思うことによってのみ、この社会は定義されている。

人はそういった社会に、卑近なレイヤーから帰属していくのだと思う。ママとパパの社会から近所の社会へ帰属するようになり、学校という社会へ、そのうち同世代という概念が彼らを包むかもしれない。多様性といった言葉は、どちらかといえば、そういったレイヤーの順序を無視して、いきなり上から降ってくるように思える。

テクノロジーはどんどん我々を単一の存在へと進化させようとしている。インターネットが最終的に我々を地球規模で1つにしようとしている。思想的なグローバリズムが吹き荒れているように感じる。本来なんとか別々に共存している社会を、SNSみたいなシステムが連結させることで、本来生じなくても良い争いが毎日のように産み出されている。萌えラッピング電車最高、というオタクと、ロリコンきしょすぎる、という社会部族集団同士のバトルを今日も見た。なんとか我々は、こうしたどうせ互いに教化できない集団同士の無為な争いを減らすべきなのである。

漠然と、人同士は話し合って理解しあえるよね〜みたいな無邪気さをSNSやってる会社は持ってそうな感じがするのだけれど、全くそういうことはなくて、中学生がジョイフルのドリンクバーでジュースを混ぜまくっている以上のものはあまり生まれないような気がしている。もちろん知的創造が発生することもあるのだけれど、それは同一の社会域で発生していることであって、ぜんぜん違う社会域の、特に互いに興味が無い人同士を衝突させても感情の爆発が起こるだけだと思っている。

うまく言えないが、多様性という言葉はそういう社会のローカル性を簡単に破壊してしまうような感じがしている。

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