インターネットに対して漠然とした希望を抱いていた世代なわけだが,当初はインターネットは趣味ごとに分断されていて,そこをまたいだ活動は限定的だったし,外の文化を持ち込むことも敬遠されたものだった. 匿名掲示板には板があって,その板ではその板の話題だけが,つまりプログラム板であればプログラムの話だけが行われていて,それ以外の話題は板違いとして退けられてきた.
争いと名前の放棄
今は ,SNSの時代だ.ひとびとがインターネット上ではっきりとした個を獲得したのは,SNSの登場によるものが大きいと思う.それまではインターネットで個を獲得するにはドメインを取得したり,自前のコンテンツを発信する力や,それを運営するだけの力が必要だった.もしくは,匿名掲示板の中で名乗れる「コテハン」だけが,かろうじて匿名の世界と個の世界とを架橋していたように思っている.
名前があると争う.おそらく,SNSにおける政治的な,あるいはアイデンティティポリティクス的な要素での争いは,SNSを使う人間がアカウントという個を獲得しており,思想の異る相手を「個」として認識してしまうところから始まるのではないか.
掲示板時代にも「ちょっとアレな有名人」みたいなのはいたわけだが,誰かがRTしてくるわけでもないし,単にNG登録しておくと永遠に見えなくなるし,議論の趨勢を左右するほどの存在ではなかった.しかし,いちど自分たちが「個」を獲得してしまうと,そういうわけにはいかなくなる.板というシステムが機能している限りにおいて,争いを避けたければそこから離れれば良かった.
しかしSNSにおける争いは個の危機感を刺激するようで,自分も何か言っておくか,とか,こんな人間が影響力を持つのは危険だ,という認識になっていく.というのもSNSにはフォロワー数とかいいね数といった分かりやすい危機感を煽るためのバロメータが設定されているので,発信者はより自信をつけるし,反発する受信者はより危機感を高めるという構造になっている.それまでは漠然としていた,支持しない思想を支持する者が具体的に目に見えるようになり,敵愾心が刺激される.
たとえばTwitterでは年中行事のように,自分たちの価値観が市民権を得たと勘違いしたオタクと,そして自分たちの価値観が市民権を得たと勘違いしたフェミニストによって,どうでもいい争いをやっているわけだが,あのネットファイトに人が引き寄せられるのは,Twitterという場所で総意が形成され,どちらかの思想が決定的に敗北する,という前提を互いに抱えているからではないか.自分たちがやっているのは正義なので,正義の敗北は受け入れられない,という感じ.
自分たちが敗北すれば決定的に破滅し,全てが終わってしまうという妄想にとりつかれている,という点については,こういうツイートを最近見た.
私、今「小説新潮」で
— 葉真中顕 (@akihamanaka) 2020年11月8日
終戦時のブラジルで敗戦を信じずテロ事件を起こした「勝ち組」を題材にした小説連載してるんだけど(↓の連ツイにあらましがあります)、
今回の米大統領選のトランプ支持者と当時の「勝ち組」の振る舞いには、かなり共通点が多い。ちょっと思いつくままに連ツイします(→) https://t.co/nBQGyM1Jk2
ところで,Twitterでの言い争いの結末が現実の価値観や立法を揺がすかというと,そんなわけないでしょとは言いきれないのも現実で,『日本死ね』が国会まで届いたり,「ネットの反応では・・・」という体裁でテレビに取り上げられたりもする.
とはいえ,国会まで届くとかテレビに取り上げられるとかは,純粋に議員やテレビパーソンの意志によって情報を取捨選択しているはずで,自分に都合の良い情報を引き出す道具としてSNSは使える,と見ているだけかもしれない. だとすると,わざわざ争いを煽っているのは誰なのか,争わせることで得をするのは誰なのか,という話に辿り着きそうだが,ここからは陰謀とか与太話に近いので略. まとめサイトは役に立つ情報や面白い情報を集めるのをやめて,争いのコレクションを始めた.争いは儲かるのだと思う.とくに広告収入で稼ぐことができるWeb媒体ではなおのことそうだと思う.
まあようするに,ネットの言い争いで世界が決定的に勝利か敗北するというのは間違ったものの見方で,結局は(争いに参加しなかった人にとっては)落ち着くところに落ち着くと思う.Twitterでどちらかが決定的な思想の座を得たとして,反りが合わない人はたんに離れていくだけだと思う.
ネットの争いは誰かが儲けるために焚き付けていると考えたほうがよほど精神にも良いと思うようになった.自分は一市民です,とか,誰誰です,とか,そいういうアイデンティティをSNSに持ち込むことで,アイデンティティをめぐる争いに巻き込まれることになってしまう.だからネットでは極力匿名に近いほうが良いという気がしてきた.ここまで書くと,昔のネットに戻っていく気がする.
さっきまでの話を踏まえると,ネットにいるときの自己はなるだけ小さいほうがいい,ということになりそう.目立とうとせず,思想を拡散しようともせず,基本的にROM専で,好きな話題だけ追い掛けている.
他人の趣味に口出ししない
で,ここからは大SNS時代の美徳というか,こうしておくと良さそう,みたいな想像のコーナーなのだけれど,こうしたら良さそうというものを考えてみた.
他人の趣味に口出ししない
棲み分けが消失しているので,棲み分けるべきと思う.Twitterとか見てると一元的な世界だけど,本来の多様性っていうのはいろんな界隈があっていいですね,という意味な気もする.だとすると,多様性というよりは多元性という言葉が良い気もする.でも自分は社会学の教授ではないので何もわからない.多元的な世界というのは,板とか個人サイトみたいな世界のこと.結局大きなCGMプラットフォームって住人が(場合によっては住人ですらない人が)一元的な自治を始めようとして,嫌になった人が出て行く,ということがあると思う.
こんなスケベな広告は許せん,となっても,なぜかオタクが参戦してきて喧嘩に,となってしまうので,なんかうまい方法はないのだろうか.
分断コンテンツを広めない
こういう記事を見た.
「Excelのデータってありますか?」「ありますよ!」ITエンジニアと現場の「綺麗なデータ」の認識の乖離がわかる画像が色々しんどい - Togetterb.hatena.ne.jpあらゆるシーンで無駄に分断を煽るのが今年のトレンド。
2020/11/10 13:26
これはマジでそうと思った.
結局こういうのでスカッとして喜んでいても,結局それは分断を煽るだけのコンテンツだな,と思う.意外なところに分断を煽るコンテンツは転がっていて,スカッとジャパンみたいなのもそうだし,最近のなろう小説が「もう遅い」で埋め尽くされている,というのもそうだなと思った.
なんとなく不満を感じているところに,どっちかをけなしてスカッとするようなコンテンツがやってくると,見た人は溜飲を下げられるだろうけど,確実にその人のものの見方は変化していて,分断は煽られていくと思う.