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京都在住Webエンジニアの日記です

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抽象的な考え事をしてはいけない

抽象的な考え事をしても意味が無いし却って悪影響があると思うようになった。つまりボンヤリ生きずに目の前の物事をよく見るべきということ。なぜか。2つの論点がある。

そもそも抽象的な考え事とは何かというと、ちょっとした隙間時間のようなものができたときに、何らかの哲学的アイデア(自己とは……みたいな話題)や社会的なアイデア(沖縄返還……みたいな話題)について、ぼんやりと考えることであると定義する。

まず、抽象的に物事を考えているとき、具体的な事物が無い状態なので、よほど気を付けて論理的思考に注力しなければ、ただの連想ゲームになってしまう。連想ゲームが発生すると、最終的に自分が持つステレオタイプに帰着してしまうと思う。こうなった場合、納得感というものは無いので、ずっとモヤモヤしたまま暮らすことになる。すると、常時脳の一部リソースをモヤモヤに吸い取られてしまって、目の前の事に集中できないので、パフォーマンスが出ない。例えば、今日のトマトはおいしいなあ、と思っているときは、それで納得感があるけれど、みんなトマトについてどう思っているのかなあ、過去の俺とトマト…………という事を考えていると、ずっと考え続けることになる。

もちろん意識してある事柄について論理的な思考を展開して考察する、という事も可能だけれど、それは意識してやる事であって、ただの考え事としてやるのは不可能。言い換えると、抽象的な事を考えるときは、意識的に気を付けてやらなければならない(すみません)。

次に、抽象性は幻影を見せる。抽象的な物事は、具体性が無いので共通言語として語れるような気がしてきて、SNSでずっとその話をしてしまったり盛り上がったりしてしまう。簡単に取り扱えるような気分になる。これを「幻影を見せる」と呼ぶことにする。しかし幻影を見ているとき、そこには無い物の話をしているので、ふつう着地させることができない。着地できないのでずっと議論をしていたり、ケンカになったりする。例えば、このツタヤでライトスタッフ売ってますか、という話題は具体的で異論無く結果が分かるけれど、表現の自由とは…………とか沖縄返還50年…………みたいな話題になると、専門的な知識を持たず訓練されていない人間は、永遠にぼんやりとしたケンカを続けなければならない。しかし抽象性が幻影を見せるので、永遠に争いが終わらない。専門的な人間は、実際に取り扱うための知識を持っているので、実際に着地させることができる。

そういえば、マインドフルネスの文脈では、身体が感じるありのままの感覚を捉えるようにしましょう、という教訓が登場していて、今説明した話と似ていると思う。抽象的な事を考え始めるとどんどん身体の感覚から逸脱していって、抽象的な思考に閉じてしまうことがある。そうなると、フワフワした悩みに苦しむ人という状態になってしまう。

とはいえ、自分は抽象的な考え事をしてしまいがちで、なぜかというと、抽象的な事を考えているとカッコ良い感じがするからで、何か素晴らしい事をやっているような気がするためである。抽象的に考えていると、何らかの省力化をやったような気がするのである。プログラミングといった一部の概念ではそれは正しいけれど、現実にそれを適用するとボンヤリした感じの人間が、どこかで聞きかじった知識に囚われてずっと世界を恨んでいる、みたいな状態になる。

インターネットには、メタな事を考えたほうがカッコ良くて、偉く、強いという世界観があって、俺は抽象的な観点から物事を捉えられるぜ、という偉さのようなものがある。しかし今説明したように、メリットが何も無いので、やめたほうが良い。

このエントリも、まあまあ抽象的だと思うから、例えをたくさん入れた。

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