ときとして誰もが無力感に苛まれることになる。最近の疫病の流行で家の閉じ込められた人々の中にも、無力感を感じている人は多いのではなかろうか。
といいつつ自分はメンタルがもやしなので、だいたいいつも無力感を感じていたりする。あー世の中良くならんなあとか、技術力上がらないなあとか、これからどうなるんだろうとか、そういう漠然としたこと。
そういった無力感を振り切るにはどうしたらいいのだろう、もしくは振り切れないものなのか。幸いにも、自分は普段から無力感に対処しようとウンウンうなっているせいで、いくらかの智恵を持っているのでメモしておこう。
関心の輪・影響の輪
まずできることとして、制御できるものにだけフォーカスするというテクニックを身に付けている。これは『7つの習慣』でも言及されているテクで、「関心の輪」と「影響の輪」という2つの概念を用いて無駄を無くすというもの。
まず関心の輪と影響の輪の中に「自分」が存在している。そして自分が影響力を行使でき、それを制御できる事柄は「影響の輪」へと入っている。影響の輪の外側には「関心の輪」が存在していて、自分が気にしているものが入っている。
ここで、関心の輪に入っているが影響の輪には入られないものが悩みの種になることは分かると思う。これは制御できないのに気にしているというわけで、どうしようもないので無視する方向に持っていく。ゆくゆくは力がついてきて影響の輪が大きくなっていけば良いが、無力感自体はどうしようもないので関心の輪を縮めるというわけだ。
すると自分が制御できる物事について関心が向くようになり、制御できるので責任をもってそれらの物事と付き合うことができるから、うまく生きていけるようになる。
制御できる安寧
制御できるかどうかちゃんと考える癖がつくと、自室が穏かな空間になったことに気付く。自明なことに、自室は自分の部屋だから制御できる。だがあれこれ気にしていた時期はそれに気付いていなかったのだ。制御できないということに気付くことで、制御できるものが浮かび上がる。物事について「これは自分で制御できるのか?」ということを考えて分別ができるようになると色々と得するなと感じている。
たとえばネットでなにか揉めていても、別に自分では制御のしようがないので離れる決断ができる。見たくないのにチラチラ見てしまうということがあったが、制御できないことに気付くとそれも回避できるようになる。
人間の非合理
少し話が逸れるが、正義感が強かったり普遍性を重視するような人は、世の中の物事にもそれを求めうるのだが、世の中の大抵の物事は制御できないことに気付き始めると、今まで考えの柱に据えてきた「合理性」が意味を成さなくなることに気付く。人は合理的であるべきなのか?自分はどう振る舞うべきなのか?
この話の要旨は、別に自分は合理的でなくても良い、という点である。合理性を重んじるうちに世の中のあらゆる事柄に「合理的で正しい」ことを求めるようになり、合理的でない何かをけなしているうちに、自分にも強い合理性を課すようになってしまう。その結果、ちょっとした考え事や空想にも「それは合理的で正しいのか」という意義を求めるようになってしまい、苦しいことになる。それも制御できないことだ。SNSが合理性を糺してくるエピソードには事欠かないから、SNSやっていると正しさを植え付けられる、と言えるかもしれない。
なんか意見を聞いてふうん、と思っても、納得することを避けようとしてしまう。納得すると一つの結論に囚われてしまうと思っているのだ。そのため答えを相対化してどれも疑うような姿勢になってしまう。これだと決断できない。何かを信じられない。何かを信じないための理由を探そうとしてしまう。騙されないようにしている。
ある意味それは、何かを愛することができない、ということでもあるのだ。愛とは非合理で、盲目的なものだから。でも生きていくには愛が必要だ。
人間なので別に合理的に発想しなくても良いのである。それを公衆に意見として発信するときに参考にするくらいでよいのだ。ソフトウェアエンジニアをやっていると、無意識に合理性に縛られるような感じがする。
自分が正しい
別軸の話だが、ふだん自分の考え方の軸足は、「自分は正しくないかもしれないなー」「相手にも理があるかもしれないなー」という感じなのだが、それがかえって自分を苦しめるということがあるのではないか、と思った。間違っているのはお前のほうだ、俺こそが正しいんだ、という暮らしぶりも、ありえるなあと思ったのだ。自分が正しい前提で振る舞ってみようか?これも、決断ができなくなる、という話と関連している。今時、1つの物事について見解が一致することなどないのだ。いちいち折れていたら自分が壊れてしまうような気がする。