Lambdaカクテル

京都在住Webエンジニアの日記です

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秩序だった外側の世界

ゲームやってると、知的な発展が得られないなと気付いて、すとんと熱が冷めたように興味を失ってしまうことがある。ゲームは基本的に内向きに世界が閉じていて、人間の知的活動はその内側に制約される。世界が外側に開いているものとは、たとえば小説(もちろん物によるが人生や科学などの示唆に富むため)だとか、ニュース(言わずもがな)の類だろう。言い換えると「知らないことを教えてくれる」である。

その裏で、インターネットやってると、単位時間あたりに触れるコンテンツ間の飛躍が激しすぎて、やはり知的な発展が得られない。いや雑学レベルで物事のつながりは覚えられるかもしれないが、それらは一緒くたにするにはあまりに異質で、自分の頭で噛み砕いて知の味を知るような深みのある体験ができず、体系的と言えるまで知識を得るためにはインターネットをただぶらつくだけではいけないし、有機的な知の獲得などもっての外である。

この二つの話、つまり世界が内側に閉じていては楽しくないし、異質すぎる情報を一緒くたに獲得しても味がしないというところから導かれる、脳が喜ぶ情報とは、ほどよく世界が外側に開いていて、それでいながらテーマ性を貫いているものだと考えた。小説はほどよく楽しめそうだ。

とはいえどんな情報も摂り終えれば人間は飽きて他の情報にありつくべく移り気になるので、ある程度自分が自分の摂取する情報を制御し、深くテーマに接近し続けるところに知的な喜びがあるのではないか。たとえばその月のテーマを決めて、そのテーマについて本を読むなり考えを巡らすということを続けてみる。何か思う事のある人は自然とテーマを追求した生き方をしているのかもしれないが、おれは根無し草のような態度の人間なので、そういう事が自然と起きることはない。

こんなにコンテンツにあふれた日常に浸かりながら、思索の船の上で深く考えることなど本当にできるのか。

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