2000年前の世界の智の総量と、現代の智の総量とではどのくらいの開きがあるのだろう。かつての情報の発信者が数少なかった時代においては、 そこそこ頑張っていれば(そしてそれが可能な地位にあれば)一生のうちに世界のあらゆる叡智を取り込むことができたかもしれない。もちろん、今とは比べものにならないほど情報の伝播は遅かったし、ほとんどの人はそれらの叡智に触れられなかったのだけれど。
でも今は違っていて、ありとあらゆる人々が発信する社会になったので、すべての智には当然追い付けない。仮に「普遍的」であったりなんらかの権威から認められたものを選別しようとしても、そもそもそれは智恵なのか、そのラベリングは妥当なのかとか、とても手に負えない。
そもそも、大して情報の総量は増えていないのかもしれない。本当に知るべきこと、知る価値のあることは、いつだって変わらないのかもしれない。俺たちは新しい物事を知ろうとするくせに、既に知られていることを知ろうともしない。 人間は加速度的に進化しどんどん変化の速度が上がっていると勝手に信じていたけれど本当なのだろうか。
仮にもうSNSをやめてソーシャル性のあるサービスで行われている気の効いた発言を完全に見ないようにしても大した損失にはならないだろう。 情報の体積は増えたように見えるが、その密度は減少している、というか。ネットでやっている情報のやりとりは、趣味性の高いものか、人権問題を筆頭とする、よくある左右の政治的対立(このような見方はするべきではないのだろうけれど)か、ただの炎上、くらいのもので、あまり真剣に取り合っても人生の栄養にならない。
栄養になるかはさておき、変化の速度は上がっているかもしれない。でも人間は(情報技術を使ってもなお適応能力には限度があるのだから)多分それに追い付くことができない。自分も追い付けない。追い付けないけど知りたい気持ちはあるので、どんどん精神が混乱してしまう。
自分の、ネット以前の「世界」のメンタルモデルは、積み上げられた本の山があって、その上に立っている感じだった人類はそれをもとに高みへと登ってゆく。歴史の本で見るような年表に出てくる真っ直ぐな数直線のように、人類の歩みが続いていく。 ネットに触れてからそのモデルが崩れていって、安心して立脚できるような基盤を失いつつあるように感じている。なんか騒々しくて、でたらめで、めちゃくちゃなのだ。 見方を変えれば、学校で習ってきた、体系的なふりをしていた世界が壊れて、本来の混沌とした姿を見せている。
そもそもネットに触れる前の暮らしで取り込んだ情報の方が上質だったような気もする。小中学生の頃は、図書館で本の虫をやっていた。 その時に読んだ本の数々は、間違いなく今の人生に影響を与えている。ネットから得た知識も人生に少なからず影響を与えていると思うけれど、通り雨のように身体を濡らしては、ただ過ぎ去っていくだけなのだ。 自分の人生を豊かにしたいという目標を置いた場合、雪崩れのような時流を整理していくのは、もはや意味がないのだ。 むしろ能動的に未来予測をする方が良い。口を開けていたところに流れてきた情報にあれこれ一喜一憂する暇が本当に無い。時間をとって情報を取り込んで、それを検討するということをちゃんとやらなければすぐ翻弄されてしまう。
総量が多いという問題の他に、あまりに誰もが発信するから、自分も発信していないと不安になってしまうという話もある。そうやって発信していると世界が(思い通りにいくはずなのに)思い通りにいかなくてむずがゆくなってくる。これは欺瞞だ。 ネットで世界の距離が縮まった。卑近に見えるようになった。指先一つで世界を変えられるような錯覚を見てしまいがちなのだけれど、世界の慣性はめちゃくちゃでかいのだ。 世界の全てを把握してそれを動かそうと立ち振る舞うのではなく、ちっぽけな人間として生きていくという覚悟を求められている。
世界はもともと、めちゃくちゃでかくて、混沌としていて、薄汚れていた。しかし誰かが額縁に入れて名前を付けてくれていたので余計なことを考えなくても良かった。そしてその額縁がふたたび剥がされて、混沌を見せ付けられている。 だったら、少なくとも自分の人生に関わる部分について、再び額縁に戻してしまっても良いのではなかろうか。
Webエンジニアという仕事
不運にも、Webエンジニアという職業が、そういった通り雨のような感じの体系で組み立てられている。技術を支配しているのが商業的なモチベーションやトレンドであるから、建築学のような純然たる技術体系になりえない。 いや建築も長い目で見ればパトロンや時の支配者の好みといったトレンドを多いに吸い込んで変化してきた技術であるし、それを支える建築学といったものがあるのだが、Webアプリケーションのそれはあまりに変化が早すぎて、われわれは建築家であるよりもむしろ日毎の糧を得るために大工にならざるを得ない。伽藍ではなくバザールであることの宿命なのだろうか。このあたりの議論は何度も何度も繰り返されていると思う。
Webエンジニアリングにつきまとう、普遍性の無さというか、トレンドに技術体系が従属してしまうことの儚さ🤩というか、目新しさを出すために半ば意図的に仕組まれたともいえる技術交代の速さ💨というか、そういう難しみ😇が、我々を建築家👨🔬ではなく、大工👨🏭にしてしまう。大工でなければ生きられない
— Windymelt (@windymelt) 2019年12月7日
エンジニアリングという言葉には工学的な響きがあるが、Webエンジニアがやっていることは学問ではなく大工なので、Reactが良いと言われればReactを使うし、TypeScriptが「効く」ならそれを使うし、そこに疑問を持つ裁量は無い。そこは学問的な積み重ねというよりはブリコラージュ的な、儚い世界だ
— Windymelt (@windymelt) 2019年12月7日
俺はやはりちっぽけな大工なのである。普遍的な知で贖われる安心感は、別の所で補われて然るべきだろう。