もはや思想は選べる時代だな
— Windymelt (@windymelt) 2019年11月17日
ある思想を盲信し他を排斥するのではなく、思想の対立性や多様性、複数の真理を認めた上で、自分のものを選ぶしかない。
— Windymelt (@windymelt) 2019年11月17日
思想のどちらが正しいといったことを考えるのは無意味である。思想こそがそのような正しさを規定するからである。その枠組において、死刑は正しいし、人権擁護も正しく、フェミニズムも正しい。それらを統合して共通の真理を探すのは無理と思うに至った。
— Windymelt (@windymelt) 2019年11月17日
私は真理に至ろうと複数の対立する思想や主義を検討したりしたのだが、矛盾しない主張と妥当そうな推論から矛盾した二つの思想が刺し違える事になるのに強い違和感を覚えていた。根拠薄弱として互いに攻撃しているが、ナンセンスであり、何らの共通理解に至れない。
— Windymelt (@windymelt) 2019年11月17日
そもそも思想というもの自体、本質的に因果に満ち、定式化できない、混沌とした世界を都合よく構造化するものに過ぎないのであって、その中核はあけすけに言えばこじつけではないか。自分の本能的直感や違和感にそれらしい論拠を与えるための。
— Windymelt (@windymelt) 2019年11月17日
世界を都合よく組み立てるためのツールなのだから、そこに真理も正論もなく、幸せな人間には不要で、不幸な人間がこれ幸いと手に取るのが思想なのかもしれない。思想とは願望であって、真理に至る道筋ではない。
— Windymelt (@windymelt) 2019年11月17日
思想の食い違いに悩んでいたけれど、正しさや真理とはかけ離れていて、むしろそれを作るための舞台装置であり、願望を代弁させる枠組みを誰かに作ってもらっているに過ぎないのだな、という気付きがあった。私はいま思想から自由だ。
— Windymelt (@windymelt) 2019年11月17日
その時最も濃い問題意識が思想を呼び寄せる。問題が行き去ってしまえば別の思想になる。私を取り巻く環境が変化し、見えるものが取り代わり、思想が詰め替えられる。信奉する思想というものは自分では気づかないものの儚い。
— Windymelt (@windymelt) 2019年11月17日
その点学問はクリアである。
— Windymelt (@windymelt) 2019年11月17日
思想を受理する過程の一番先に立つのは問題意識の受理である。問題意識によって思想が代わりうるなら、特定の問題意識を選ぶのは何によるのか?それは個々人の培ってきた優先度によるものが多いのだろうか。何が大事で何がそれに及ばないのか。
— Windymelt (@windymelt) 2019年11月17日
君は何が大事で、他はそれに及ばないのか、それを問うていく暮らしが始まるのだな。
— Windymelt (@windymelt) 2019年11月17日
人は思想の儚さを知らない。絶対的で真理を帯びた、聖別された要素はそこには無い。
— Windymelt (@windymelt) 2019年11月17日