Lambdaカクテル

京都在住Webエンジニアの日記です

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7月13日

2つ以上の正解があるみたいな状況でどっちかを取らされるみたいなのが苦手で、というのもどちらも選ばないという選択肢を忘れそうになってしまうからなのだけれど、日々沢山の情報を受け続けていると、「いやそれでも俺はこう思う」と自分の考えを持ち続けるという状態で堪え続るということはできないだろうなと思う。どんどん流れてくるパッケージ化された意見に同調するか、しないかという状態になってしまうだろうなと思う。

そもそも、別にどっちでもいいよ、という状態を保つのが困難な世界になっているなあ、という実感がある。日々、提示される意見のどちらかを選ばされているような手応えがある。自分の考えが正しいのかわからなくなっていくし、この文自体もおかしくて、そもそも正しいとか正しくないという次元で考えてはいけないのに、正しいかどうかでなんでも判断するという感じになっている。何事も、それを表明するのに、それが何らかの価値観に照らして正しいことを裏付けとして要求されるような気がして、窮屈に思っている。言い換えれば、あらゆる情報に暗黙の価値付けや、正義のようなものが紛れ込んでいる。なんでも何かを信奉しているか、そのアンチという文脈で語られがちである。都会はダメで、田舎は良いという前提があって、その上で田舎暮らしを賛美するような、面倒臭さが漂っている。

自然は真空を嫌うという言葉があるが、情報もそうなのだろうか。あっという間に情報は浸透し拡散するから、論理武装を余儀なくされているのかもしれない。届けるつもりのない場所に届いてしまうし、教えたくない人に教えてしまう。そうなると国境線が生じて、それを保つために一定の武装が必要になってくる。情報の拡散する速度が上がっているから、それに対する反発も強くなっていて、それ相応の武装をしていく。その結果、やたら思想の濃い感じの情報しか流れなくなっているような感じもする。漠然となんかが良い、みたいな情報は流れにくくなっていく。

人に何かをすすめるときも、自分は細心の注意を払っていたりする。突然論難されたりすると嫌だからだ。実際はそんなことはないのだが、SNSで見た人たちがフラッシュバックして、相手が必ずしも好意的な反応を示さないかもしれない、と身構えたりしてしまう。インターネットが教えてくれたことその1、世の中は自分に好意的な人ばかりではない。

技術者なので、なにかが話題に上がったとき、例外や重箱の隅を突くようなムーブを意図せず取るときがあって、自分も気を付けたいと思っている。自分は何かを自慢したいときにそういう行いをされると嫌な気持ちになると思う。常にそういうムーブを取って論破王みたいになっている人は、自分の好きなものについて自分が批判的な姿勢を取ってしまうのが怖くないのだろうか、と思う。それとも、論理的に完璧にそれがすばらしいと思っているのだろうか。

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