Lambdaカクテル

京都在住Webエンジニアの日記です

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怒りを誤魔化してきたのかもしれない

己が世は人の世である。生きる事は他人との衝突にまみれている。今日もフェリーに乗ってるんだが、やべー奴がいっぱいだぜ!頼むから寝室ではチビッコ諸君は騒がないでくれ!

人はなにかしら自分の権利が損なわれたり、またその危機に晒されると怒りの感情を覚え、怒るものである。

しかし俺は怒るということが生来少なかった。なぜか。一つには聞き分けの良い子供だったので、何か不愉快な目に遭っても正常性バイアスが強く働いて「そういうものだ」と納得していたのかもしれない。その結果どうなったか。怒りのエネルギーがストレスに変換されて代わりに溜まる。考えれば納得行くような事ならまだしも、見てみぬふりをしてしまった怒りはやり場がない。そのせいかは知らんがいつもなんかぐったりしている。どういうわけかイライラはしないのだ。なんか不愉快な事を受け入れてしまって毒が蓄積されたような感じである。余はフグなりしや。

怒りのやり場に困る事を考えていたところ、そもそも怒りは主観的なものなのか客観的なものなのかという疑問が生まれ出る。この問いは、「怒りの感情を、イライラを抱えても良いのか」という疑問を解くために必要なのだ。怒りを顕にすることは、怒りの種類によってはみっともない事、不徳とされている。電車で子供が騒いでいてイライラする、といったものがその最たるもので、インターネット論壇にこの手の話題を諮ると「親が悪い」という方向へ怒りを正当化する論か、「子供はそういうもの、我慢しろ」という方向へ怒りを不当化する論があらわれる。つまり客観的ななんらかの立て付けにより、怒りが正当化される場面と、そうでない場合が峻別されているように感じている。なんらかの客観的根拠があれば怒りは正当化されるのか、それとも怒りは主観に属するもので、議論の行方は怒りと独立している、つまり怒ることは正当とも不当ともみなされないのか、と言った事が気になりだす。フェリーはネットが通じないからこういうことを考えて暇を潰すしかないのだ。あとは持ってきたOOSC2E本を50ページほど読み進めた。

あるいは怒りを抱くことと、怒りの露出は分けて考えるべき事柄かもしれない。腹を立てるのは最もだが、顕にすべからず、といった態度である。だがそれではどの道ストレスが溜まるんではないのか?ここでヘイトを活用して、イラついた対象を侮蔑の対象とすれば収まりは良いかもしれないが、俺は高貴な人間だからそういう事はできない。クソガキが騒ぐのはイラつくが、親の気持ちになってみると胸が張り裂けそうだ。わかってるさそんなこと!悪意があって俺を怒らせているわけではないことくらい分かるし、世の中の怒りが悪意によって生まれることなど滅多に無いのだ。悪意でもって人を怒らせようとする人間を想定すると世の中は成り立たないし、世の中は善意で成り立っているからだ。

そもそも俺の認知が歪んでいる可能性がある。浮世一般ではもっと怒りに対する枠組みがコモンセンスとして培われているのかもしれない。だが俺はそれができない…………!

グオーーー!!!画面の前の君は怒りとどう向き合っているかな?教えてくれよな!

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