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京都在住Webエンジニアの日記です

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何かにイライラしているように見えるが、実は考えることが多いということについてイライラしている

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記事とは無関係な鉄火巻 初詣のときに立ち寄った店でいただきました おいしかったです

いつからか自分はけっこうイライラを溜め込みやすい性格になった(元からそうだったのかもしれない)ので、それから逃げるためにゲームをやりまくったり、食べまくったり、飲みまくったりしてしまう。しかしイライラというものはその根本原因が解消されない限り、ずっと足元に黒く残っている。

イライラしているとき、なかなかその溝から抜け出せなくなってしまう。イライラしていると気晴らしにも成功しにくい。ゲームは失敗するし、食べて苦しくなるし、酒による破滅をもたらしてしまう。 自分でも原因がよくつかめていないときはなおさらそうだ。自分がなぜイラついているのか知る術がないのだ。はっきりとある出来事があってイライラしているのであれば原因ははっきりしているのだが、そうはっきりと原因が見えることは少ない。

幸運にも今回はきっかけの一つを捕獲できた。会社のSlackを何の気無しに覗いていたら考えることが爆発してイライラしてきたのだ。安直に考えると「そのチャンネルがイライラの原因」となるが、事はそう簡単ではない。 考えることが爆発した、というのが重要だ。その原因はチャンネル自体ではなく、仕事の情報に触れたことだ。その結果「考えることが爆発して」しまい、イライラするに至ったのだ。

ここで一つの仮説を呈示してみる。自分はひょっとして、「『考えることが多い』という事」についてイライラしているのではなかろうか。時系列ではこうだ。まず会社のSlackを覗く。すると仕事の情報が書かれている。仕事の情報から別の業務的な瑣末な内容が、大小の粒が不揃いな状態で、わっと頭をよぎる。すると急に考えることが増えたぞ、と脳がこれを検知して、防衛ナントカだかでイライラする。なんでこんなに考えなきゃいけないんだ!という風に。こうなるとさらにイライラしているな、ということ自体が考え事の1つになってめちゃめちゃになっていき、イライラが増えていく、というわけ。結構当たっている気がする。だからこそゲームとかメタルを聞くとか、強制的に意識のスコープを絞れるような事を始めて逃げようとするのだ。これが読書といった行為にならないのは、スコープを絞る力が無いからだ。読書は没入するまでにかなりの能動的な態度を必要とする。イライラしているとそこに辿り着くまでのエネルギーを確保できない。

ここから導かれる解決策はいくつかあって、考えなければならないかどうかをGTD的に機械的に判定して「考えなくても良い」という切り捨てをやっていくということとか、エンジニア的な言い回しでいう「帽子を被る」ように、人格をいい具合に切り替えてコンテキストスイッチを完全に行う(そのためにはコンテキストの数は少ないほうが良いのだが)ということとか、そもそも何が大事で何が大事でないか分かっていないから切り捨てるということができないので自分にとって何が一番大事かと決めて、物事をそれに従属させるという考え方もある。

ようはシンプルに物事を見る、ということなのだけれど、非常にこれは難しいし、危険なのだ。例えばこれが大事なんだという事柄を前提に物事を従属させるようになる、ということが行き過ぎるとそれはカルト宗教と同じになってしまう。適度に自分の信じる世界観に基いて世界を見るべきで、また適度に物事に余白を入れて疑うべきなのだが、それをやりすぎると自分では何も決められなくなっていく。人間はこのうちのどこかのスペクトラムに属していて、前者は思い込みが強いとか熱狂的、行動力がある、単純という言葉で表現されているし、後者は冷静とか、客観的とか、柔軟、主体性が無いという言葉で表現されている。

最近金沢に行ってたときはTwitterをやらなかったから体調が良かったように感じていたが、その実は( 結果的に)考えることが少なかったからイライラすることがなかったのだな、という気付きもあった、さらに、強制的にスコープを切る、つまりある特定の事しかできないし考えられないような場所や行為、例えば映画館とか喫茶店、他人と出掛ける、といったことが好みなことに裏付けができた格好だ。

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