常識とは18までに身に付けた偏見のコレクション,という気の効いた警句を残したのはアインシュタインだったと思うぜ。とはいえ変化の多い世の中にあって,18で偏見の新規加入受付が停止するはずもなく,大人になってもなおどんどん偏見を取り込んでいる人もいる。
実際に,ネットは役立つ有用な情報のコレクションだったのが,誰かの失態をあげつらう逸脱者処断プラットフォームになっている。来る日も明くる日も,日毎の生贄を見付けては誹謗中傷に加担して人生をめちゃくちゃにする。そうやって海外では犠牲者が出ていたし,日本でも目立つ犠牲者が出たじゃないか。
その一方で処刑の儀式に参加しない人々は政治にご執心だ。敵と味方という極端に単純化した視点で物事を斬っていくのは楽しい。毎日毎日政権を批判することしかできないか,政権批判を批判することしかできない人ばかりで,建設的な作業は何一つ行われていない。ただ互いを罵るだけで,「誰かの失態をあげつらう」の二極版になっているだけだ。自分たちではそれが正しい世の中に繋がると信じているのだ。余談だが,「ネットの向こうにも人がいるんですよ」式の道徳も,この手のイナゴの群れを目撃してしまうと手放したくなってしまう。こんなに他人を攻撃するのが好きな人が存在しているのを到底受け入れたくないわけだ。
そういうありさまのネットに触れていると,知らずのうちに党派性や批判ありきの思想が肩を叩いてくる。それ以外の選択肢があることを知らなければ,あっさりと波に飲まれて永遠にネットで戦い続けなければならない。賽の河原かあるいはヴァルハラか,地獄(あるいは天国)は既にこの世に顕現していたとは。だがそこから脱却しなければならない。
オープンマインドという概念を昔見聞きした気がする。もしくはかねてから温めていた自分の発想に名前を付けたものだ。要するに偏見を取り除きましょうという話なのだが,それだとただの(みんなが聞き飽きてうんざりしている)リベラルな啓示にすぎない。だがこの言葉はそれ以上のものだ。
オープンマインドであるということは,世の中は(おおむね)善意で満ちていると信仰することだ。「どうせわかってもらえない」ではなく,「きっとわかってもらえる」と信仰することだ。自分が今立たされているこの状況が,閉じたものではなく開かれたものであり,自分は動けると信仰することだ。
精神的な健全性は,「どうせ分かってもらえない」「こうに違いない」と発想し,それが固定されることで一気に増悪し,こじれていってしまう。オープンマインドなポリシーはそれを防ぐためにある。Googleのオフィスに見られるようなカラフルなインテリアは,一種のオープンマインドポリシーを具現化したものだと言える。
オープンマインドポリシーは事実ではなく信仰である。自然にそう思うのが難しいからこそネットは憎悪と正義に満ちている。だいたい他人の内面に関する事実を知ることはそもそも不可能な話ではないか?だからこれは信仰する以外にないのだ。 楽観主義と言い換えても良いと思う。