人間は争う生き物だ.昔は飯を求めて棍棒で争っていたが,最近はなりを潜めて,インターネットの人類はだれもが正義を求めて言葉で争っている. その一端に,論理と直感との対立という側面を垣間見ることが多い. こんなに適当な例を出すと怒られそうだが,たとえば死刑制度もこういう対立の側面がある.(俺は 専門家じゃないから,言葉の誤用があると思う.)
人を殺すことはきわめて悪いことである.なら人を殺した人間に対価を支払わせるなら,その命でもって贖ってもらう.というのが直感的な解---人間の直感と矛盾しない,「自然な」解---だとここでは考えよう.近世以前の国ではこれがスタンダードだったのではなかろうか.死には死で報いるという論理だ. その一方で,人を殺すことはきわめて悪いことなので,人を殺した人間を殺してはならない,あらゆる人間には人権があるから,そこから演繹すると罪を死で償わせるのは良くない,したがって死で償うことはせず,再犯を防いだり,犯罪を防ぐことに注力すべき,というのが論理的な解---誰もが合意する点から演繹して得られた解---だとここでは考えよう.
いささか手前勝手ではあったが,論理と直感との対立とはこういうものというのを示した.
ところであまり俺はそういう論理と直感との対立を今の時代の人間や,過去の時代の人間がどのように扱ってきたかを知らない. 論理と直感はどう処理されてきたのかが気になってきたというわけ.
そしてまた政治的対立にも論理と直感との対立がある.論理で組み立てられたかぼそくも迂遠な理論を誰かが掲げるのを,直感に根付いた言葉でその非をあげつらうという光景はインターネットで日常的に見られる.こういったときにはたいてい直感に与する主張が場を圧倒する.
直感はまっすぐでシンプルである.そしてデザインについて語るとき,シンプルなものは美しいとされる.直感は美しいのだ. だからこそ人間は直感を受け入れやすい. その一方で,論理を土台にして演繹された主張は,厳密さを借りる必要性から冗長に映り,シンプルさに劣る. くどくど説明された,正しいことはわかっている一方でなんとなく怪しい理論よりも,快刀乱麻を断つような直感のほうを信じたくなる.
こういった対立においてどちらを選択するかという分水嶺は,その人間がどこまで論理を信じるか,自明な前提から出発して,非直感的な主張に到達したとしてもそれを支持できるか,という点にあるのではなかろうかと思う.ではその支持する力はどこから生まれるのか. おそらく大学等において論理的な思考を鍛えられた人間は論理を辿る力を獲得するが,これを獲得しない人間もいて,この違いが少なからぬ論理への待遇の差を生む要因になっているかもしれない,と俺は考えた.そこに優劣をつけられるかは,なんとも言えない.
世の中ではこれをどう見ているのかと思って「論理 直感」とかで検索したら直感論理と古典論理がヒットして使いものにならない.「-数学」などとして検索結果をフィルタしてもあまり有用な結果を探せなかった. そもそも学問においては直感的に行動することを市民として認めていないというか,そうする人は無知蒙昧として退けられるきらいがあるのではないかとも思う.直感に従う人々は,フェイクニュースやデマといった文脈で,どちらかといえば批判のまなざしに晒されることが多いような気がする.
なんかこういう論理と直感とについて言及した古典とかがあったら教えてください.