Lambdaカクテル

京都在住Webエンジニアの日記です

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なぜなら神ではないので

自分の頭で考えて生きてゆかなければならない。

考え方の偏った人を見て感じたのが発端だったのかしら、それともまとめサイトで見たのだったかしら。そう思うようになって自分の生き方の中心に添えるようになったのは、高校生くらいのときだったと思う。公正さや客観性を重んじるようになり、いわゆるクリティカルシンキング、批判的に考える癖みたいなものがついた。

そしてインターネットで広範な知識をインストールされ、それについてのうんちくを垂れる他人のおかげで、何一つ自分に関係ないものはないのだというマインドセットが出来上がった。新聞に載っているような事柄について何かしら言えなくてはならないと考えるようになった。実際は世の中で知っていなければならない事なんてそんなに無いし、興味があれば読むくらいで良いらしいし、みんなはその程度で暮らしているのだろうけれど、俺はわざわざ社会的なイシューを拾ってきては読んで、問題意識を植え付けられたり、沈痛な気持ちになったりしてしまう。

批判的に考えるのは一般には良いこととされているのだが、コストの高い話だ。世の中にある言説ひとつひとつに批判的な目を向けて考える。隠された欺瞞に気付こうとする。そういうやり方で世の中を見ていたので、なんだかつまらなくなったし、インターネット言論につきものの無益な争いにすっかり食傷してしまった。右派か左派かのどちらかについて対岸を批判さえしていれば楽だったかもしれないが、妙に気難しい俺はそれを許さず、こちら側の欺瞞にもすぐ気付いてしまうのだ。

そうやって暮らしていたところ、ニュースというものはわざわざ耳目を引くイシューを取り立ててくれるので、世の中には問題が多すぎる、過酷だ、外国の脅威に晒されている、子供が非行に走る、みんな乱暴な車の運転をしている、原発はオワコン、反原発もオワコン、ブラック企業が多すぎる、ヘイトスピーチ怖い、などと感じるようになり、社会というものが信じられなくなっていき、精神的に荒廃していった。一時期は酷くて抗うつ剤と睡眠薬に頼らなければ暮らすことができなかった。

ところで市井の民百姓を見よ!別に好きなことだけ考えて適当に暮らしてそうに見える。しかも幸せそうだ。かつての我々の立場からすればノンポリであり、スイーツ(笑)であり、真実を知らない者、日本がこんなにおかしな事になっているのにそれを放置する者共、消費社会で夢を見ている人たちとして映ったはずだ。だがこの見上げた特権意識と使命感はどこから来たのだろうか、なぜ自分だけ特別で正当な、あるべき姿だと自認していたのだろうか。それで俺は、まああまり世の中の事を気にせずに生きててもいいんじゃないか、というヒントを得た。

なぜなら神ではないので、世界のあらゆることについて自分で考えて責任を負って生きてゆくことは出来ないのだろうな、と思った。じゃあどこまで責任感を持てばいいのか、まだ考えることはたくさんある。

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