Lambdaカクテル

京都在住Webエンジニアの日記です

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ふと静謐な孤独感、孤独の殻の内側か外側にいる排外主義

夜になるとなんとなく孤独感を感じるのは誰しもそうなのかもしれないが、昼もそんな気分になることが多い。これは実際に俺が孤独かどうかとは関係のない、俺が世界をどう捉えているかという問題だ。

例えば政治的立ち位置だとか、宗教的感情、抱えている健康の問題は孤独感と密接に繋がっているだろう。特にそれが世間における主流とずれている、疎外されていると感じる場合は特にそうだ。 大手を振って歩けない、抑圧されかねないといった危機感に対して、人の心はとりわけ敏感にできている。

例えばその疎外感の一つにある政治的ポリシーについて述べると、俺は好きなサイトで排外的な意見が主流派として君臨しているのを見るのがとても辛い。俺はニコニコ動画で育ったんだが、未だにそれを見ていると、なんとなく排外的な事を言っても良いような風潮が出来上がってしまっていて、それをうまく避けながら動画を見ていることができない。あの場所では、国粋主義的な枠組みに賛同しない人間は居られないことになっている。俺はミリオタだから動画の性質上そういう言動を避けようがなくて、だいたいいつも、わざわざ言わなくてもいいような排外コメントを見なければならない。

そういう抑圧的な雰囲気は全く改善しないし、俺は昔はまとめサイトも好きだった(黎明期からずっと見ていた)から懐古的な、嫌韓的な風潮にも触れてきたけれど、もともと世間の隅で小声で僻みを言っていたような、決して品の良いものではなかったことばが、そのうち度を越して排外的になり、それが大手を振って街に飛び出し、思想というものそのものが持っている荒くれた暴力性を見せつけ、舞台で踊っていた人々がそのまま暮らしの何処かへ浸透してしまったかのような違和感を感じだしてからは、そういう思想からは離れてしまったし、高校から大学にかけて、旅行や生活を通じて世の中には様々な人間が共生しているのだということを感じ取り、歴史が持つ神話性や物語性に対する疑いの眼差しが芽生えた頃、俺はいつの間にか、ネットでは(殊に俺が愛するニコニコやまとめサイトでは)非主流で売国奴、オモチャ扱いの、リベラリストになっていた。そういう転向組なこともあって、右派と左派がレッテルを貼り合い互いをオモチャ扱いして遊ぶ局面を(ネットでは茶飯事だ)見ると、どちらか一方を突き放してみることができなくて、もどかしい気持ちになるし、悲しくなってしまう。それが俺が抱えている政治的な孤独感といったところか。戦争に関しても、美しい死というウエットなテーゼもわかる一方で、強いられた死というドライなテーゼもわかる、といって伝わるだろうか?

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