Lambdaカクテル

京都在住Webエンジニアの日記です

興味もなかった政治に目覚めて人生に背を向けるな

政治と宗教の話はご法度と言われていたのも昔の話で、今時のネットには政治的話題が氾濫していて、ネットでしきりに語られていた「ネットと現実の区別を付けろ」という言葉が過去の彼方に霞んで見える。より露骨に政治運動が浸透して、より生々しい現実が近づいただけに見える。

どこのSNSにいても、どのサイトでも、どの動画サイトでも、本来必要のない政治的中傷や、政治的賛辞を見かける。なんでも“アベ”か“マスゴミ”のせいにしたがる。面白くもないのにページや動画の内容を政治になぞらえて得意げになっている。寝てろ。

インターネットで、嬉々として政治の話を持ち出すような人は元々そんなにいなかったと思う。 もともと、そんなにみんな政治に興味などなかったはずである。それがいつしか政治の話を興奮気味にするようになった。

たとえば、父親がそうだ。ネットを与えて以来、暇さえあればどこかで吹き込まれた野党と外国人への“批判”を機械のように繰り返すようになった。帰省するたびに聞かされる。「いじめはいけない」とか「仲良くしなさい」と自分が子供の頃に言っていたような父親の面影はない。誰かによって作られた実体のない敵をいじめて楽しんでいる。 もう働いていないから一日中PCの前に座って、文字が流れる動画を見ている。『千と千尋』の冒頭のシーンを思い出す。料理を食べているうちに、自我のない豚になっていく。

政治がネットをうまく道具化する事に成功したという風に捉えても良かろうかと思う。それまで政治に関心のなかった人を煽って、自分たちの揉め事に巻き込む事に成功した。政治の大衆化に成功した。国民がより国の民になった。それが良い方向に働くか悪い方向に働くかは一概には言えないし、今更後戻りもできない性質のものだと思う。インターネットによって政府や政治団体と民百姓とが急速に接近したことだけが確かだ。印象操作とセレクティブエネミーによって作られた政治。かろうじて良識のある人が支えているから世の中が保たれているような、危うい印象を受ける。

TwitterといったSNSで熱心に情報発信する人に感化される形で、人々は政治に“目覚めて”いった。自分の生活だけにしか関心がなかった人が、あいまいな正義感で必要もない味方や敵を作って、顔も合わせたことのない人に熱情を注いだり、憎しみをぶつけたりしている。空虚だ。手のひらの機械一つで、わずか数タップでできる手軽な正義にうつつを抜かしている。

政治参加が悪だと言っているのではない。ただ人生の暇をすべて他人のための政治に巻き込まれることだけに費やしているような大人子供がネットにあふれていて、それで何が生まれるの、と言いたくなることが多い。こういう人たちは娯楽として政治をやっている。真剣にやってるわけでもなく、ずるずると政治ツイートをRTしたり、URLのコピペで言い争ったり、目的もないまま相手をこき下ろす事に夢中になっている。そこに人を幸せにしたいという意思が読み取れないことが多いと言いたいのだ。過熱なのだ。

自分も政治に触れ出した中学生の頃、世の中の人は政治に関心を持たなすぎる、けしからん、正義に生きる真面目な俺たちは積極的に政治に参加するんだ、などと息巻いて考えていたけれど、本来はああいう頃の周りの大人のような、自分の利益にならないことはほっとくような感じで良かったのかもしれないと思っている。いまや誰もがインターネットで政治に巻き込まれたり、“目覚め”たりするようになり、ノンポリの時代が終わった。

政治と宗教の話がご法度だったのは、ひょっとすると揉めるからではなく、批判合戦やアジテーションが混入することで場やコンテンツの質が下がるからだったのかもしれない。

ろくすっぽ自分と関係のない政治の話に熱中しているときは自分の人生について考えずに済むことも多いのではないかと思う。もちろん今まさに世の中と利害が一致しなくて苦しんでいる人は政治と生きざるを得ないかもしれない。だがそうでない人は、それで人生に背を向ける事になるのではないかと思ったりもするのだ。